創竜伝02 摩天楼の四兄弟 田中芳樹 ------------------------------------------------------- (テキスト中に現れる記号について) 《》:ルビ (例)遥《はる》か未来に |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)単身|赴《ふ》任《にん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] [#途中に出てくる天野版の挿絵は小説の流れとギャップが大きいと思われるのでコメントにした] [#挿絵を復活する場合は、『[#天野版挿絵 』と『]』を削除のこと] -------------------------------------------------------   目次 第一章 夏休みはおとなしく 第二章 ベイシティ狂騒曲 第三章「ロンドン橋落ちた」 第四章 オールスター登場? 第五章 ビッグボウル崩壊 第六章 あちらこちらで品さだめ 第七章 夢見る者さまざま 第ハ章 歴史は夜にもつくられる 第九章 摩天楼《まてんろう》のドラゴン 第十章 終りよければすべてがよいか   あとがき [#改ページ] 『創竜伝2〈摩天楼の四兄弟《ドラゴン》〉』おもな登場人物 竜堂《りゅうどう》 始《はじめ》(23) 竜堂4兄弟の長兄。責任感ある竜堂家の家長。 竜堂《りゅうどう》 続《つづく》(19) 竜堂4兄弟の次兄。上品な物腰の美青年。 竜堂《りゅうどう》 終《おわる》(15) 竜堂4兄弟の三弟。ヤンチャな悪ガキ。 竜堂《りゅうどう》 余《あまる》(13) 竜堂4兄弟の末弟。潜在的超能力は最大。 鳥羽《とば》 茉理《まつり》(18) 竜堂兄弟の従姉妹《いとこ》。明朗快活な美人。 鳥羽《とば》靖一郎《せいいちろう》(53)茉理の父。共和学院の現院長。 藤木《ふじき》 健三《けんぞう》(59) 日本兵器巌業速盟事務局長。冷酷なエリート。 奈良原《ならはら》昌彦《まさひこ》(41)警備保障会社の名を借りた暴力組織の社長。 田母沢《たもざわ》篤《あつし》(72) 医薬界の大ボス。生体解剖が趣味。 レディL〈パトリシア・|S《セシル》・ランズデール〉(28)           マリガン国際財団参事。四人姉妹《フォー・シスターズ》の手先。 ウォルター・|S《サミュエル》・タウンゼント(42)           四人姉妹《フォー・シスターズ》の極東地区前線司令官。 [#改ページ] 第一章 夏休みはおとなしく       ㈵  頼まれもしないのに気象庁が梅雨あけ宣言を出した翌日は、夏休み最初の日曜日だった。  東京湾岸に位置する大遊園地は、八万人の行楽客でごったがえしていた。フェアリーランドという、かなりわざとらしい名前を持つこの遊園地は、アメリカの経営技術《ノウハウ》と日本の資本力を合わせて建設されたもので、年間二〇〇〇万人以上の人がおとずれる。東南アジアの国々からも観光客がやってくる。六〇万平方メートルの土地が、年間二〇〇〇億円以上の金銭をかせぎだすのだ。  その日、二〇世紀もあと数年となった年の七月二二日。  八万人の善良な群衆のなかに、二万分の一の確率で、じつはかなり危険なお客がいた。竜堂《りゅうどう》という姓を持つ四人兄弟で、名を、始《はじめ》、続《つづく》、終《おわる》、余《あまる》という。 本人たちはこの名前が、けっこう気に入っているが、世間には、「何という不まじめな名前だ」といって怒る人もいる。竜堂兄弟にとっては、よけいなお世話である。彼らが自分で名前をつけたわけではないし、「名前が気にいらないからつきあわない」という人と、むりにつきあう必要もない。  後日、この日はフェアリーランドと八万人の男女にとって、忘れることができない日となる。だが、午後六時現在、まだ誰もそのことを予想してはいない。人ごみと行列と騒々しさにうんざりとしながら、弟ふたりを待っている竜堂始と続もそうだった。彼らは、人の流れからすこしはずれた時計塔の下で、夏の夕陽をあびて、所在なげにたたずんでいた。  一九歳の竜堂続は、すこし大げさに記述すると、類のないほどの美青年で、ひかえめに描写しても、並ぶ者がないほどの毒舌《どくぜつ》家である。精神は過激で、行動はさらに過激である。弟の竜堂|終《おわる》に言わせると、「孔雀《くにやく》の羽をかぶった鷹《たか》」なのだそうだ。だまって立っていれば、茶色っぽい髪と瞳をした白哲《はくせき》の美貌で、プロポーションは完壁だし、服装のセンスにも隙がない。華麗と優美が、額縁《がくぶち》つきで、この若者をかざっている。  二三歳の始と、この続とが並んでたたずんでいると、人目、とくに若い女性の視線を引きつけること、はなはだしいのだった。  始は教壇に立つときなど、素どおしの眼鏡をかけ、背広にネクタイという姿でインテリ然としているが、この目のようにラフな服装をしていると、一九〇センチ近い、均整のとれた長身で、彫りの深い端整な顔に風格がただよい、いっそ中国風かペルシア風の甲冑《かっちゅう》でも着こんだら、さぞ似あうだろうと思わせる。 「兄さんなら京劇で趙子竜《ちょうしりゅう》が張れますよ」  そう続が言ったことがある。趙子竜とは、中国の三国時代、蜀漢《しょっかん》の勇将として知られた超雲《ちょううん》のことで、京劇では、勇壮な立ちまわりをこなせる美男俳優の役どころである。  そういう続自身は。蘭陵王《らんりょうおう》が張れるだろう。と始は思う。この人は中国の南北朝時代、北斉の驍将《ぎょうしょう》であった高長恭《こうちょうきょう》のことで、あまりの美貌を隠すために、戦場では仮面をかぶっていたという伝説があった。  竜堂始は、生まれたときから長男だった。奇妙な表現になるが、そういう雰囲気と自覚を持っていたということだ。一〇歳で両親を失ってからは、とくにそうだった。  自分が長兄だからしっかりしなくては、と考えたのだが、それがあまり悲壮ぶるでもなく、ごく自然に、三人の弟をかばい、リードしてきた。 「始には、中国でいう長者《ちょうじゃ》の風格がある」  共和学院の創立者である祖父の竜堂|司《つかさ》は、そういって孫をほめたものだ。なぜ君子《くんし》といわなかったかというと、始は、自分と弟たちの身や名誉を守るためなら、大のおとなを片手で吹っとばすぐらいのことはやってのけたからである。  つい先月まで、始は、共和学院の最年少理事であり、高等科の教師だった。義理の叔父である学院長の鳥羽《とば》靖一郎《せいいちろう》は、この甥《おい》をけむたがり、さまざまな経緯《いきさつ》の後に、ていよく追放してしまった。  始が去った後、共和学院の高等科では、「竜堂先生の復帰」を求める署名運動がおこなわれているそうだ。  なかなかにおっかないところのある教師だったが、始は、「暗記なんてものは、自分で考える力のない奴が逃げこむ場所だ」と明言し、追試のときは、「誰でもいいから、世界史上の人物で、自分が好きな人物のことを書くように」といって、結局のところ、みんな救いあげてやった。 「世界史を好きになる生徒を、ひとりでも多くつくることが、世界史の教師の役目だ。点数をつけて落第させるのが仕事じゃない」  りっぱな発言だが、こういうことを言うものだから、叔父にけむたがられるのだ。  とにかく、現在の始は失業者である。やることもないから、祖父が遺《のこ》した膨大な古書を整理する毎日である。それが、年少組のふたりが夏休みにはいったため、マネージメントの才能に富んだ次男坊の続が、世聞一般の家族レジャーをセッティングしたというわけだった。  ほんとうは、始は、フェアリーランドに代表されるアメリカ人のセンスがそれほど好きではない。フェアリーランドをアメリカでつくった人は、有名なア二メーション制作者で、美術的、技術的にすぐれた作品を多く制作したが、その大部分は昔の童話や児童文学をアニメ化したものであり、自分で作品世界を創造したわけではない。ほんとうの生《う》みの親は、グリム兄弟であったりアンデルセンであったりする。アニメという表現形態を生みだした点は偉大であるが、真の意味で創造的な内容のアニメは、アメリカには生まれていない、と始は思っているのだった。  ただ、費用と技術を惜しまない点には、始も感心する。フェアリーランド名物「ゴシックハウス」のしかけ[#「しかけ」に傍点]など、日本的なおばけ屋敷の貧弱さとは比べものにならない。  茶色っぽい絹糸のような髪を、続が指先でかきあげた。陽に灼《や》けない体質の次男坊は、白い顔を兄に近よせてささやきかけた。 「ね、兄さん」 「うん?」 「何だか頸《くび》すじのあたりがチクチクしませんか。さっきから、いやな空気がこちらへ流れてきてますよ」 「慧《さと》いね。お前さん」  始は唇の片隅でだけ笑った。害意、敵意、悪念。そういったマイナスの精神波が、行きかう群衆の一部から、彼らふたりにむけて放射されているのを、さっきから始も感じていた。 「どこかで誰かが、おれたちのことを観察しているような気が、たしかにするな」  始の視線が、フェアリーランドの上空に、一見悠然と浮かんでいる銀色の飛行船に向かって伸びた。  飛行船に乗って、大口径の望遠鏡で五〇〇メートル下の地上を見張っていた半ダースほどの男たちは、ぎょっとしたであろう。見張っている当の相手が、地上から彼らをにらんだのだから。  もっとも、始自身は、自分の勘だの第六感だのを、それほど重視していない。すぐに視線をもどして、彼らの周囲を行きかう人々を見やったが、わずかに眉が寄った。 「どうも気に入らんな」  不快そうに始はつぶやき、白い麻のハンカチで頸《くび》すじの汗をぬぐった。ちらりと兄を見やった続は、小さくうなずき、視線を動かした。夢見るような光彩をたたえた瞳は、じつは、するどく周囲を観察している。この春、彼らが経験した騒動のかずかずを思いだすと、そうそう目前の平和を信じこむわけにいかなかった。  一五歳の竜堂|終《おわる》と、一三歳の竜堂|余《あまる》は、ゴシックハウスにいた。最新技術を駆使して幽霊や怪物を動かし、それらがむらがる暗黒の地下回廊を、卵型のポッドに乗ってめぐるのだ。二時間待ってようやく一〇分だけ乗れるという、大人気のコースである。  不気味な物音、悲鳴、笑声がひびきわたり、レーザー光がひらめき、機械じかけの怪物たちが動きまわり、客の前にいきなり立ちはだかる。それらのしかけを人なみに楽しんで、五分ほど経過したころ、 「ね、終兄さん」  余が小さく首をかしげた。 「何だか変だ。ぼくたちの乗っているやつだけ、コースをはずれちゃったみたいだよ」 「はずれたんじゃないぞ、余、誰かがはずしたんだ」  終の瞳がきらきらかがやいた。危険を知らせるシグナルが光ると、うれしくなってしまう性格なのだ。竜堂家の三男坊は、昔からトラブルと親友づきあいをしていた。 「どうやらおれたちだけ特別招待ルートに乗せられちまったらしいぜ」 「追加料金とられるかなあ?」 「冗談! こっちから代金を請求してやるさ。ショーのエキストラになってやるんだから」  終が宣言したとき、ポッドががくん[#「がくん」に傍点]と揺れて停止した。暗闇のなかである。遠くから、怪物の笑声や、お客の楽しげな悲鳴が、かぼそく伝わってくる。 「おりろ、ガキども」  すごみのある声、というより、下品でおどしつけるような声がした。どす黒い暗がりのなかに、一ダースほどの人影がわだかまっているのを、終の視力は、正確にとらえていた。  思わず口もとがほころびそうになるのをこらえる。どんなに技術とサービス精神の粋《すい》をこらしても、ゴシックハウスはつくりものである。ところがこいつは、まるで洗練されてはいないが、ほんもののスリルなのだ。 「さっさとおりろ! 銃がきさまらをねらっているんだぞ」  あいにくと、竜堂終は、銃弾などより、長兄のひとにらみのほうが、よほどおっかないのである。そのことを言ってやろうかと思ったが、あまり格好《かっこう》よい台詞《せわふ》ではないと気づいたので、胸をそらしてこう応じた。 「銃とバレンタインデーがこわくて、いまどき高校生がつとまるか。お前らが誰か知らないけど、命令されるいわれなんてないや」  弟をうながしてポッドをおりたものの、終は立ちどまろうともせず、さっさとその場から歩き去ろうとした。 「孺子《こぞう》、そこを動くな!」 「やだね」  脅迫を、一言で否定して、終は歩きだしかけた。そのとたん、足もとでコンクリートのかけらがはね、銃声が低くこだました。消音装置がついて頭でっかちになった拳銃が、白くにごった薄い煙を吐きだしている。火薬の匂いが、終の鼻先にただよってきた。 「さあ、これでも動けるというのなら、やってみろ」 「やってみるよ」  終は動いた。そのスピードは。相手の反射速度を完全に上まわった。  銃を持ったまま、男の右手首は、外側に九〇度おれまがった。終のキックが命中したのだ。男は二度あえいだあと、すさまじい悲鳴をあげた。  この騒がしい日、これが最初の悲鳴だった。       ㈼  男たちは計算が完全に狂ったようだった。  銃でおどかしておいて拉致《らち》する。ごく簡単で安易《あんい》な計画だった。それなのに、「ガキども」は、銃の存在など無視して反撃してきたのだ。  彼らがうろたえた一瞬、終と余は、ポッドが進入してきた通路を、逆方向に駆けだしている。常識外の速さで、通路の分岐点まで来ると、そこで待ちぶせしていた人影が、横あいから終に飛びかかってきた。  薄い明かりの下で、機械じかけの魔女や狼男やガイコツ男が、けたたましい笑声をたてた。その上に、終にはねとばされた男の身体が落ちた。いやな音がして、魔女や狼男がつぶされ、男の身体がころがる。電気がショートして青白い火花が散った。  後方から追ってくる男に、終が、ガイコツ男を投げつけた。男はガイコツ男とだきあって床に転倒した。うなり声をあげ、ガイコツ男を放りだすと、余につかみかかった。腕をつかんでひきずり倒そうとする。  余が軽く腕を振ると、男の身体は宙を飛んで、ガラスの障壁に衝突した。  ガラスが飛散し、照明を受けて虹色にかがやいた。男は床で一転して半身をおこしたが、衝撃をかくしきれない表情で呆然としている。おそらく肉体的な衝撃より、精神的な衝撃が大きかったにちがいない。彼は余より身長で二〇センチ、体重で四〇キロは上まわっていた。それなのに、まるで枕《まくら》かクッションのように、軽々と放りなげられてしまったのだ。 「こ、こいつら、いったい……」  何やら幻妙な体術をわきまえている、と思ったらしい。呼吸をととのえ、空手《からて》の騎馬立ちのかまえをとった。  彼が相手にした少年たちは、武道や格闘技の天敵であった。修行とか鍛練《たんれん》とか、そういうものが通用する相手ではないのだ。だが、むろん、そんなことは、男にはわからなかった。 「さあこい、ガキども」  武道家の実力を見せてやるつもりだった。  終の右足がはねあがった。相手は両腕を十文字に交叉させて、その蹴りを防いだ。完壁な防御《ディフェンス》。プロレスラーのキックでも防ぎきれたにちがいない。だが、終のキックは、いわば固形爆薬にひとしかった。  両腕を交叉させた姿勢のまま、男は吹っとんで壁にたたきつけられた。両腕の骨がくだける音は、悲鳴にかき消された。男は壁面をずり落ち、そのまま気絶した。おかげで生命を落とさずにすんだのである。  壁面の各処で火花がスパークし、機械じかけの怪物たちが、コンピューターの制御をはなれて無秩序に動きはじめた。ポッドの動きも乱れて、通路をはずれたり、急停止したり、急発進したりする。ポッドどうしがぶつかりあい、怒りとおどろきの叫びがおこった。  あちこちで電気系統がショートしたらしく。青白いひらめきが点滅する。 「こっちだ、余!」  叫ぶと同時に、終はローキックの一撃で、眼前にせまった巨漢のひざを蹴りくだいた。  兄のそばに、余が走りよる。その襟首をひっつかもうと、一本の腕が伸びたが、それは終にはらいのけられた。肩の骨がはずれ、腕の持主は、独楽《こま》のように回転して、壁と床の境界線に頭からつっこんだ。 [#天野版挿絵 ]  後ろから終につかみかかろうとした男は、余に突きとばされた。肋骨をくだかれた男は、宙を飛んで、ちょうど進入してきたボッドにたたきつけられる。ポッドの座席に並んですわっていたアベックが仰天して、ポッドからころげ出した。魔女があざ笑う。狼男が咆《ほ》えながらとびまわる。もうむちゃくちゃである。  あっというまに一ダースの重軽傷者を生産してのけると、三男坊と四男坊は、混乱と怒号を後に、手近の通路に飛びこんだ。青白く照明された通路を、一〇〇メートルほども走ると、行手にドアがある。 「関係者以外立入禁止。ここより『とんがり塔のお城』」と書かれていた。 「兄さん、ここ、ゴシックハウスじゃないよ」 「らしいな、だけど似たようなもんだぜ」  地下の通路は、ゴシックハウスから、とんがり塔のお城へと通じていたのだ。 「お城の地下牢」では、二〇人ばかりのお客に、女性ガイドが説明していた。最年少の幼児にもわかるように説明しているので、ほとんど幼稚園の先生みたいなしゃべりかたになる。 「はあい、ここは秘密の地下牢なんですよお、何が出てくるかわかりません。悪い魔女にとじこめられているのは、王さまかな? お姫さまかな? たしかめてみましょうね」  女性ガイドが勢いよく両手をひろげると、鏡ばりのドアが開いて、竜堂終と余が駆け出してきた。とっさに声もないガイドとお客たちの間を、兄弟は固体化した風の速さですりぬける。一瞬の空白につづいて、逆上した追跡者たちが、血まみれの姿をあらわした。手には拳銃があった。  悲鳴がひびきわたり、何人かの客が突きとばされた。子供が泣きだす。老婦人がひっくりかえる。 「おちついて! おちついて!」とガイドがおちつきのない声をはりあげる。  混乱は拡大する一方だった。  人間の服を着て、うさぎの巨大な頭をつけたラビットマンが、何気なさそうに、始と続に近づいてきた。ピエロもいる。熊の頭をしたベアマンもいる。ゆらゆらと。バランスの悪い上体をゆらしながら、竜堂家の長男坊と次男坊をかこんで輪をつくっていく。輪の外側では、子供とその親たちが、人気者たちの姿を見てさわいでいた。 「これもショーの一種でしょうかね、兄さん」 「だとすれば、フェアリーランドの企画力も底が知れるな」  始と続は、ごく自然に背中あわせに立って、包囲の輪をちぢめてくるラビットマンやピエロの攻撃にそなえた。  ラビットマンの赤い両眼に、悪意の影がちらついていた。動物の擬人化《ぎじんか》、あるいは人間の擬動物化は、フェアリーランドに代表されるアメリカ文化の、きわめて気色わるい一面である。動物に人間の服を着せ、後肢《あとあし》だけで直立させてよろこぶという心理は、はっきりいって正常ではない、と、始は思う。 「竜堂始君だね、それに続君。ちょっと君たちに用があるんだが……」  ラビットマンが、白すぎる歯の間から日本語を押し出してきた。始はだまっていた。返事をしたのは続である。 「この暑いのにぬいぐるみを着こんで、ご苦労なことですね。もういい年でしょうに、感心しますよ」  ラビットマンは、赤い目でじろりと続を見たが、交渉相手は長兄のほうと決めているらしく、すぐに視線を始にもどした。 「さて、ここには八万人の老若男女がいる。何の罪もない善良な市民たちだ。彼らを騒動に巻きこみ、被害を与えるようなことになったら、君たちの良心は、さぞ痛むんじゃないのかね」  なお返事をしない始を見やって、ラビットマンは、悦に入った笑声をたてた。 「そう思ったら、さっさと吾々《われわれ》といっしょに来てもらおうか。でないと、八万人の安全は保証できんぞ」  ここでようやく始が返答した。 「あいにくと、ぜんぜん思わないね」 「なに……?」 「巻きこむのは、あんたたちだ。おれたちじゃない。残酷で卑劣で恥知らずなのは、あんたたちであって、おれたちじゃない。何人が巻きこまれようが、それはあんたたちの責任であって、おれたちの知ったことじゃない」  言い終えると、さっさときびすを返しかける始だった。 「ま、待て!」  狼狽《ろうばい》して、ラビットマンの声が高くなる。 「八万人のお客がどうなってもいいというんだな」 「自分に尋《き》けよ。おれたちが返事する筋合《すじあい》じゃない」  言い放ってから、始は、長剣をみがく騎士のような笑いを浮かべた。 「もっとも、八万人ぜんぶ殺せると思うなよ、その前に、お前さんを再起不能にしてやるからな。何をやるのもご自由だが、つけ[#「つけ」に傍点]は払わなきゃならんだろうぜ」  ラビットマンの声が、一転して低くなった。 「よし、よく言った……」  相手に責任を負わせようとする、ラビットマンの卑劣な詭弁《きべん》は、始の豪毅《ごうき》さによって、みじめに粉砕されてしまったのである。始の知性なり理性なりが骨太であるのは、ラビットマンのようなえせ論理に、けっして迷わされないことだ。  もともと、始は、自分が正義の味方だなどとは思っていない。正義の味方というものは、しばしば、自分が全能であるように思いこむ。あらゆる悪を防ぎとめ、すべての人を救うのが自分の責任であり、自分にはその力が具《そな》わっていると信じているようである。あいにくと、始は、他人の悪辣さや卑劣さを、自分の罪として背負いこむ気は、まったくなかった。ラビットマンの罪は、ラビットマンがつぐなうべきであるはずだった。  ベアマンやピエロが、ラビットマンの表情をうかがった。命令を待っているようすで、手をもじつかせる。だぶついた衣服の下に、兇器が隠されているのは明らかだった。 「かわいげのない青二才どもが……」  ラビットマンの赤い目が、にせもののルビーのような光りかたをした。肉食の巨大な兎《うさぎ》がいるとすれば、まさにそれだった。 「いいか、後悔するなよ。死者が出たあとで梅やんでも遅いぞ」  すでに破産した脅迫の台詞を、ラビットマンは。ふたたび口にした。それが合図だった。  ベアマンが身動きした。片手に黒い棒がにぎられている。黒い革《かわ》袋のなかに重い砂をつめた殴打《おうだ》用の兇器、ブラックジャックであった。       ㈽ 「何だ、あたらしいアトラクションか? それにしちゃ、洗練されてないな」  そういう声が、群衆の間からおこったが、たちまち周囲からのおどろきの声にかき消された。  ベアマンが空を飛んだのだ。ぬいぐるみとも九〇キロはあるベアマンは、続に片手で投げとばされ、物見だかい行楽客たちの頭上をとびこえて、一〇メートルほど離れたメリー・ゴーラウンドに頭から飛びこんだ。つくりものの白馬に衝突し、乗っていた若いOLが悲鳴をあげて転落する。  つづいてピエロが宙を飛んだ。ナイフを手にしたまま、これはメリー・ゴーラウンドの屋根にぶつかり、はね返って地上に落ちる。ラビットマンは、ナイフをたたきおとされ、始の肩の上にかつぎあげられていた。始は、大の男ひとりをかかえているとは信じられない軽捷《けいしょう》さで、やじ馬の列を突破して、近くのサービスステーションの裏手へ姿をくらましてしまう。その後を追おうとした続が、くるりと振りむいて、やじ馬たちに対した。 「失礼、どうぞこのことはお忘れください」  優雅に一礼すると、続は、目と口を|O《オー》字型にして立ちつくしている数十ダースの人聞の前から悠然と歩き去った。  もっとも、サービスステーションの角をまがると、続は快足をとばして走りだしていた。始が虎なら、続は豹であろう。しなやかで、リズミカルな走りかたは舞踊をすら連想させた。  八万人が入場していても、サービスステーションの裏には人影がない。そこで始は、ラビットマンの身体を地上に投げ出した。ラビットマンはたくみな受身の姿勢を見せてはね起きようとしたが、すかさず、始の靴先が、そのみぞおちを蹴りつけた。ラビットマンはうめき声をあげて倒れた。始の手がマスクにかかる。  兎のマスクの下にあったのは、骨ばった中年男の顔だった。汗にまみれ、苦痛にあえいでいたが、目つきがはなはだしく陰惨であった。暴力の専門家、暴力団員、あるいは特務機関員などに共通する目つきだ。  始がごくおだやかに尋《たず》ねた。 「お前さんたちに給料と命令を出しているのは、どこの何者だ?」 「さあ、どこの誰だろうな」  男は、ハードボイルド風に決めたつもりであったろう。だが、唇をゆがめて酷薄な笑いをたたえた瞬間、顔の下半分に、靴先がたたきつけられていた。続がけりつけたのだ。  男は数本の前歯をへし折られ、血と唾《つば》を宙に散らして顔をのけぞらせた。せきこみ、うめき、血まみれの顔で竜堂兄弟をにらみつける。気の弱い人間なら、そのすさまじさに、腰をぬかしたかもしれない。だが、むろん竜堂兄弟はそうではなかったので、平然として男を見返した。 「……きさまら、ただではおかんぞ。このまま無事にすむと思うな」  これは慣習といっていい台詞《せりふ》なのだが、いちじるしく続の癇にさわった。続は男の右手の甲に足を乗せた。べつにカを入れたようにも見えないが、男の手は動きを封じられた。 「権力をかさに着て他人を脅《おど》すような人間は、ぼくにどんな目にあわされてもしかたないんですよ。それに……」  続は、さりげなく足に力をこめた。男の真赤な口が開いて、大量の空気と少量の声を吐きだす。 「ぼくに命令できるのは、この世で、ぼくの兄だけです。ぜひ憶えておいていただきましょう。竜堂家の人間に無礼な口をきくときは、家族あてに遺書を書いておくんですね」  ラビットマンは口から赤い泡と赤い悲鳴を噴きあげて気絶した。これまで何十人もの人聞に危害を加えてきた右手の骨を、踏みくだかれたのである。  ごく幼いころから、続は、兄の始に対してしか敬意をはらわないという一面があった。 「続ちゃんは、始兄さんのいうことしかきかないのねえ」  そう母親が苦笑し、父親が憮然《ぶぜん》として頭を振ったことがある。三男坊の終が生まれたとき、赤ん坊は元気すぎるほど元気だったが、母親は乳腺炎《にゅうせんえん》という病気でなかなか退院できなかった。祖母は赤ん坊にかかりきりになり、祖父や父は学院の仕事に追われている。となると、必然的に、四歳の続のめんどうを見るのは、八歳の始ということになるわけだった。  それまで長男らしく鷹揚《おうよう》にかまえていた始は、おとなたちの想像以上に、よく続の世話をした。寝かしつけて、おこして、ミルクとパンの食事をとらせ、風呂に入れてやり、幼稚園に送り迎えし、絵本を読んでやった。ひらがなまで教えてやったのは、後年の教師根性の走りであったかもしれない。  末っ子の余が生まれると、終のめんどうは続が見ることになった。順おくりというわけだ。だが末っ子の余が生まれた直後に、両親が亡くなり、以後、四人兄弟は祖父母を保護者として成長することになった。  そして現在、長兄の始が軍司令官であるとすると、続は、副司令官であり参謀であり、ときには行動隊長にもなる。日常レベルでは、計画性でも処理能力でも続が兄を上まわるようで、さまざまに予定をたて、それを進行させるのは、この次男坊の役割だった。  完全にのびたラビットマンを見おろして、始が小首をかしげた。 「やれやれ、のびちまったか。しかし、これほど悪辣なやりかたは、民間人の発想じゃないな」 「公務員でしょうね。公安警察かな。それともアルファベットの略称を持った連中かもしれませんね」  自分たちは国家利益のために働いている、一般国民は税金を納《おさ》めて自分たちを養えばいい、そして災厄が生じたときには権力者たちを守って死ぬべきだ。そう考えている者が、人間世界でもっとも残忍にふるまうことができる。 「続はどう思う?」 「さしあたり対症療法でいくしかないようですね。こんなふうに」  ラビットマンのマスクをとりあげて、続が手首をひらめかせた。マスクは、テニスボールのように軽く速く飛んで、ステーションの屋上から竜堂兄弟を麻酔銃でねらっていた男の頭に命中した。男は絶叫をあげ、バランスをくずし、屋上から姿を消した。建物の向うに転落したらしかった。 「まいったな。いったい何人、群衆のなかにまぎれこんでいやがるんだ」  つぶやいて、始は弟をかえりみた。 「ゴシックハウスに行ってみよう、終と余が、奴らに見逃がされているとも思えん」 「心配ですか」 「ああ、やりすぎてやしないか、とな」  口ではどう言っているにせよ、始は、終の機敏さと、余に対する責任感とを信用している。だから、とりかえしのつかない事態になっているとは思わないが、逆に、騒動を大きくしている可能性は大いにある。 「おれは兄弟のうちで一番弱いんだ」  と、竜堂始は、ある人物に言ったことがある。べつに謙遜したわけではない。人間の限界をこえた異常な能力は、兄弟順が下になるほど強まっているように、始には思われるのだ。  それと反比例するように、自覚とコントロール能力とは、長兄が一番すぐれている——はずである。そうありたい、と、始は思ってきたのだが、弟たち、とくに末弟の余が能力を完全に開花させたとき、自分がそれを制御できるか。  あまり楽観的にならないほうがよさそうであった。しかも。始自身、自分の潜在能力を完全に把握《はあく》してはいないのである。  竜堂家の長男と次男は、サービスステーションの隅から、高さ二メートルの金綱を軽々と乗りこえて、亜熱帯樹の林の中へはいりこんだ。  そこはアフリカのジャングルと草原を模したゾーンであった。自然石を使ったプールでは、ワニやカバが泳いでいる。陸では、ライオン、チーター、マウンテンゴリラなどが動きまわっている。いずれもほんものではなく、コンピューターで制御される機械じかけの動物である。  人間と機械だけの世界。一匹もほんものの動物はいない。動物園のように、動物の排泄物や汗が悪臭をただよわせることもない。清潔[#「清潔」に傍点]で無機的で無臭の世界だ。完全につくりものの、玩具の世界。考えてみると、いささか気味が悪い。 「フェァリーランドをつくった人は、動物映画をずいぶん制作したが、もしかしたら動物がほんとうはきらいだったのかもしれないな」  そんなことを考えていると、続が、兄の左腕を軽くつかんで注意をうながした。プールのすぐそばだった。人工の熱帯でも、誰かが彼らを待ちぶせていたのだ。今度は、サファリルックを着こんだ七、八人の男だった。やはり陰惨で獰猛《どうもう》な目つきをしている。  すれちがいざまだった。手を出したのは男たちが早かったが、攻撃を相手の身体にとどかせるのは、竜堂兄弟がまさった。  肘打ちを横面にたたきこまれた男が、殴打用の兇器ブラックジャックを手にしたまま、五メートルほども吹っとんだ。ふたりめの男は、あごに一撃をくらい、短い木刀をにぎったままよろめく。その男の大きな身体をかかえあげた始が、危険な笑いを口もとにひらめかせると、その男の身体を、残りの男たちにむかって投げつけたのだ。  男たちは、よけることもできなかった。よろめき、平衡をくずす。手足を振りまわし、悲鳴をあげながら、つぎつぎとプールの水面に落ちていった。  ロボットのワニやカバが、男たちの周囲で咆哮し、巨大な口をあけると、男たちは、水中で首をすくめ、両腕で頭をかばった。  行楽客たちの笑声がおこる。それを背に駆け出した始と続は、またしても数人の男たちに行手をさえぎられてしまった。  夏空は夜へむかって急速に暗度をましていっていた。始と続は、うんざりしながら方向をかえ、また走りだした。すぐに、陸橋にさしかかる。  線路の上を、一九世紀末風の蒸気機関車《SL》が走ってきた。「冒険列車《アドベンチャー・トレイン》」と呼ばれるものだ。その機関車が、陸橋の下をくぐりかけたとき、始と続は、体重など無視した身軽さで、陸橋から飛びおり、列車の屋根に移っていた。追跡者たちは目と口を大きくあけたが、決意したように、陸橋の手すりを乗りこえた。  冒険列車の機関士が、とんでもない不法乗客を屋根の上に見つけてどなった。 「何をしてるんだ! おりろ、おりろ!」  機関士の怒りはもっともだが、いまさらおりるわけにはいかない。始は、恐縮したような表情と身ぶりをしてみせて、前方に視線をうつした。冒険列車は、人工河にかかる鉄橋の上を渡りはじめていた。始たちとまったくちがい、必死の努力で列車に乗りうつってきた男が、胸のポケットに手をつっこんだ。  始はすばやく男の襟首をひっつかみ、じたばたもがくのもかまわず、機関車の煙突にその顔を突っこんでやった。煙でいぶされた男は、せきこみ、両脚をばたつかせた。さんざん煙を吸いこませて引きずりだす。 「そら、顔を洗って出なおしてこい」  放りだされた男は、聴《き》き苦しいわめき声を宙に残しながら、一〇メートル下の水面に落下していった。青い水面に白いしぶきがあがり、小さな輪がひろがる。  外輪船ハックルベリ・フィン号とトム・ソーヤー号に乗った人たちが、おどろいて船べりから身を乗りだす。重心がかたむき、船体が大きくゆれた。 「寄らないで下さい、一方に寄らないで下さい! 船がかたむきます……!」  ガイドの声が途中から悲鳴にかわったのは、外輪船の屋根を突きぬけて、人間の身体が客席に降《ふ》ってきたからだった。  鉄橋から陸へと移動する冒険列車の屋根で、竜堂続が小さく肩をすくめた。 「ちょっと目測をあやまったかな、まあ、たまには、こういうこともあるでしょう」  ごく簡単に、続は自分の失敗について論評した。始は何も言わなかった。三人めの男を地上に放り出すのにいそがしかったので。  とうとう機関士が列車をとめたとき、屋根の上から、追う者も追われる者も姿を消していた。  この時間、とんがり塔のお城から逃げだした三男坊の終と末っ子の余も、べつのレールの上にいた。  それは、世界一の長さを誇る、フェアリーランドご自慢のジェットコースターの軌道だった。終としても、この場合、酔狂《すいきょう》だけでこんな場所に上りこんだわけではない。しつこい追跡者から逃《のが》れる方便でもあったのだ。さらには、いまひとつの理由がある。 「兄貴たちは、どこをうろついてるのかなあ。弟たちがこんなに危険な目にあってるのに、無責任な保護者たちだぜ」  高い場所に上れば、兄たちがどこにいるか、わかるかもしれない。また、その逆に、高い場所にいる弟たちを、兄たちが見つけてくれるかもしれない。 そう終は考えたのだった。       ㈿  ジェットコースターのレール上を、身軽なくせにのんびりと歩いているふたつの人影。それを最初に発見したのは、疾走するコースターの最前列にすわっていた大学生の二人組だった。 「わっ、ばか、あぶない、ぶつかる……!」  それだけでもまとまった台詞《せりふ》を口にできたのは、りっぱというべきだろう。他の客は、何かしゃべるどころではない、目をとじて歯をくいしばるか、絶叫するか、どちらかだったのだ。  終と余は、時速一五〇キロで突進してくるコースターを、ひょいとかわした。とびあがった足下を、コースターが轟音をあげて通過していく。  大学生たちはわめいた。 「コースターをとめろ! とめろ!」  急停止させれば、かえって危険なのだが、そうわめくのは当然だった。ほとんど同時に、お客の列を整理していた従業員も、終たちに気づき、あわてて電話に手を伸ばした。コントロール・センターに連絡したのだが、かえってきたのは怒声だった。 「ジェットコースターのレールを人間が走ってるだと? あほう! 酒も飲まずに酔えるとは器用な野郎だな」  事実は、しばしば常識によって無視される。この場合がそれであった。現に終や余の姿を見た者でさえ信じられなかったのだから、電話連絡を受けただけのコントロール・センターで、信用しなかったのも、むりはない。  だが、センターにはつぎつぎと連絡がはいってきた。場内の各処で、混乱や騒動が発生し、設備がこわされ、お客たちからの苦情が殺到しはじめている。メリー・ゴーラウンドは一部がこわれ、ゴシックハウスも機能がマヒし、各処に配置されたサービス・スタッフたちは、二時間も待たされたお客たちの抗議の前で、立往生しつつあった。 「映画のロケーションでもやっているのか」  という質問もあったが、これは何しろ、竜堂兄弟が正体不明の遅中に追われ、あちこちで乱闘さわぎをおこし、お客や従業員に目撃されていたからである。その結果、すでに三〇人からのけが人が出ている。かなりの重傷者も出たようだが、救急センターには届けがない。それやこれやで、コントロール・センターでは右往左往したあげく、本社に判断責任を押しつけた。  フェアリーランドを経営する会社は、「東京湾総合開発」といい、旧財閥系の銀行と不動産会社、それに鉄道会社の出資によってつくられた。フェアリーランドは東京湾の一番奥の海岸を埋立ててつくられたのだが、東京湾総合開発は。フェアリーランドを中心として、「青少年を健全に育成するため、公共的な施設をつくる」という名目《めいもく》で、優先的に土地を手に入れた。本社は、東京都内、日本橋にある。  その東京湾総合開発の社長は酒井忠雄《さかいただお》といい、悪い意味での企業家精神の持主だった。この男にとって、フェアリーランドは、子供の夢やおとなの企画構想力を実現する場所ではなく、金もうけの手段でしかないのである。本場のフェアリーランドは、いかに気持よくお客にむだ使いさせるか、その点に工夫《くふう》をこらしているが、日本はすこしちがうのだ。  フェアリーランド周辺の土地も、すべて東京湾総合開発の所有物になった。ここには、青少年野外活動センターやスポーツ施設がつくられるはずだった。  だが、酒井たちは、いろいろ工作をおこなって政治家たちを動かし、その土地を住宅やマンション用に高く転売できるようにして、不当な利益をあげた。おまけに、フェアリーランドはアメリカの本社に多額の特許使用料《ロイヤリティ》を支払わなくてはならない、とか、建設時の借金を返さなくてはならない、とか理由をつけては、利益をすくなく報告し、税金をきちんと納《おさ》めていなかった。各方面にフェアリーランドの招待券をばらまき、ジャーナリズムに対しても広告料をちらつかせて口封じをしている。ときどき、このようなやりかたが、一部のジャーナリズムで問題にされるが、多数派意見になることはない。現代の日本では、不正を追及する者は、嘲笑の対象にしかならないのだ。 「世の中なんてそんなものさ」  という、現状肯定、思考停止がはびこり、とくに政治ジャーナリズムの批判精神は。腐りはてて影も形もないありさまだった。  とはいっても、人身事故らしきものが発生して、それを無視することができるわけではない。酒井社長は、縦にみじかくて横に長い身体をゆらし、部下の無能をののしりながら。ヘリコプターの用意を命じた。内心、誰に対外的な責任をとらせるか考えをめぐらせながら。  いつのまにか、フェアリーランドは、夜間パレードの時間になっていた。始と続は、弟たちをさがしながら、メインストリートの方へやってきた。  信じられないほど華麗で悪趣味なイルミネーションをかがやかせながら、バレードがやってくる。金、銀、赤、白、青、緑の光が点滅し、バトンガールや、ぬいぐるみたちが、にぎやかな行進曲を鳴りひびかせ、メインストリートを埋めつくしているのだった。  ソビエトからアメリカへ亡命した者は、ほとんどがカリフォルニア州やフロリダ州のフェアリーランドへつれて行かれるという。きんぴかの資本主義を見せつけてカルチャーショックをおこさせるためだとか。それはまあ、確実におこすだろうな、と、始は思う。感動するか、あきれかえるかは。徴妙なところだが、感動するにちがいない、と決めこんで疑わないのが、アメリカ人らしいところだ。  ところが、そのイルミネーションを除いて、フェアリーランド内の照明が突然、消えてしまったのだ。半瞬の間をおいて。にぎやかすぎる楽隊の演奏がとまり、おどろきあわてる人々のざわめきが潮のようにわきおこった。だが。それも騒動の第一段階にすぎなかった。いきなり赤紫色の光が人々を照らした。  フェアリーランドに入場していた八万人の行楽客は、呆然として夜空を見あげた。  大遊園地の象徴であるとんがり塔のお城が、花火ではなく火柱を噴きあげたのだ。どおん、と、はでな音がして、窓が破れ、炎が噴きだす。これは、城の地下で追いつ追われつを演じていたとき、終と余が、電気配線に追跡者たちをたたきつけ、配線をショートさせた。それがエネルギー系統全体を狂わせた結果だった。  現代の日本人は、どんな兇悪な犯罪でも、悲惨な事故でも、イベントやショーにしてしまう。子供を誘拐されて殺された親に、TVレポーターと称する感受性の欠落した男女が、「いまのお気持は?」とマイクをつきつけ、それを視聴者は喜んでながめている。  だが、自分たちが巻きこまれるとなれば、無責任におもしろがってはいられない。「うわあ」とか「きゃあ」とか、個性のない叫びをあげ、いっせいに動きだした。  子供がころぶ。妻が夫を呼ぶ。突きとばす。押しのける。つかみあいがはじまる。さながら暴動である。  渦まく混乱のなかで、始と続は、ようやくジェットコースターの下にたどりついた。これは終のもくろみがあたって、高い場所にいる弟たちを、兄たちが発見したのだった。なにしろ赤い満月がコースターにかかって、ふたりの影が浮きあがっていたので。 「兄さあん、ここだよ」  余が手を振る。場内の電気がすべて消え、コースターも停止してしまって、もう衝突の心配もない。 「余、飛びおりろ。受けとめてやるから飛びおりるんだ!」  長兄の遠い声を聴き、しめす動作を見たとき、余は、いささかもためらわなかった。大きくうなずくと、ひと呼吸して、レールをけり、二〇メートル下の地上にダイビングする。  群衆の間から、あらたな悲鳴があがった。少年がひとり、二〇メートルの高処《たかみ》からとびおりたのだ。地面にたたきつけられ、血を吐くかと思われた。だが、とびおりたほうも、それを命じたほうも、常人ではなかった。始は、ダイビングスタイルで落下してくる余の両手をかるくつかみ、柔道の肩車の要領で、余を空中で一転させ、とん[#「とん」に傍点]と地上におろしたものである。もっとも、自分は、反動でバランスをくずし、尻もちをついてしまったが。余は息を吐き出し、兄に抱きついた。 「兄さん、ありがとう、でも、大丈夫?」 「ああ、大丈夫だよ。だけど、あんまり心配させてくれるなよな。おれは二三かそこらで、白髪《しらが》になってしまうよ」  笑って立ちあがる。終のほうは、コースターのまがりくねったレールの上を飛んだり走ったりして地上に無事。着地した。始は半ば余をかかえるようにして走りだした。続と終がそれにつづいた。兄弟愛にひたっているひまはない。いくら不敵な彼らでも、一連の騒動の責任をとらされるのはごめんだった。  フェアリーランドは混乱のまっただなかだった。照明を失って暗黒と化した場内を、八万人がやみくもに逃げまわり、走りまわっていた。ときおり、爆発光や炎が、彼らの頭上に、気味の悪い光を投げかけた。  日本人は、平和なときはアイスクリーム屋の前に無用な行列をつくって不平も言わないが、いちど平和が失われると、容易にパニックにおちいる。奴隷的な従順さと、興奮剤を飲まされた牛のような暴走ぶりと、その両極端をゆれ動いて、中間値というものがないようであった。  豪華なアーケードのついた商店街は、ガラスが割られ、椅子やショーケースが倒され、商品は掠奪《りゃくだつ》されて、あわれなありさまである。  終が思いだしたように額の汗を手の甲でぬぐった。 「こいつはちょっとまずいんじゃない、始兄貴?」 「そうだな、損害賠償を請求されても、とうてい応じられんだろう、すでに」 「じゃ、いまさら遠慮したってしかたないわけだ」 「終君が遠慮という言葉を知っているとは思いませんでしたね」 「知ってるけど好きじゃないな」 「ええ、よくわかりますよ」  一番小さい余を、他の三人が三方から守るようにして、竜堂兄弟は混乱のなかを半ば駆け、半ば歩いた。もう従業員たちも、群衆を誘導する努力をあきらめたようだ。炎上するお城を背景に、八万人のマラソンが出ロへ出ロへと殺到している。  フェアリーランドの上空に達しかけたヘリコプターの機内では、フェアリーランドの経営貴任者である酒井忠雄が、蟹《かに》座の生まれでもないのに泡を噴き、白眼をむきかけていた。頭のなかで数字がとびはねている。両目には、炎上するとんがり塔のお城の臨終の姿が映っていた。 「大損害だ、大損害だ、大損害だ……」  おなじ台詞《せりふ》をくりかえすのも当然であろう。この日、フェアリーランドでくりひろげられた華麗なる大騒動は、巨大な損害をもたらした。破壊された設備のかずかず、死傷した人々に対する補償金、休業期間中にかせぎ出されるはずだった利益。保険にはいっているとはいえ、失われた安全上の信用は巨大であった。  ようやく出口にたどりついた竜堂兄弟のなかで、三男坊がやや残念そうに問いかけた。 「もうフェアリーランドを出るのかい?」 「代金以上に遊んだでしょう。他人の迷惑にならないうちに出たほうがいいですよ」  まだ迷惑をかけていないかのような台詞を口にして、続が兄を見やった。始がうなずく。これで方針が決定したので、終も異議はとなえなかった。長兄の判断は、一家の方針というのが、彼らには自然で当然のことだった。 「再建されたら、また来ようね」  余が結論を出して、竜堂兄弟は、混乱がつづくフェアリーランドを後にしたのである。具体的には、多くの客がとりついたままよじ登るのに苦労している高さ五メートルの鉄柵を楽々と乗りこえて。だが、フェアリーランドにとっても、竜堂兄弟にとっても、迷惑きわまる一日は、まだ終わってなどいなかった。 [#改ページ] 第二章 ベイシティ狂騒曲       ㈵  東京都港区|高輪《たかなわ》の一角に、白亜の城塞のようにそびえたつホテルがある。そこの二〇階、東京湾岸の夜景を見はるかすプレジデントルームに、五人の男がいた。イタリア製のソファに腰をおろし、英国製のスーツに身をかため、ハバナ葉巻の紫煙をくゆらしている。日本製なのは、男たちの肉体だけであろう。  ひとりの男が、手にした受話器を大理石のテーブルにもどし、仲間に肩をすぼめてみせた。六〇歳前後の、銀髪をした中肉の男である。 「みごとに失敗しおったらしい、役たたずどもが」 「奇をてらうから、そういう結果になるのだ。わざわざ遊園地で誘拐せずとも、いくらでも他に方法があったろうに」  べつの男が冷笑する。ロイド眼鏡をかけた細身の男で、やはり年齢は六〇歳くらいである。最初の男が平静をよそおって答えた。 「遊園地とは非日常の世界で、そこには個人などというものは存在しない。群衆の一部分でしかないのだ。そこで客が消えても、それがそのグループ全員であれば誰も気づかん、誰も騒がん。奇をてらったわけではない」 「だが、つまるところ失敗したではないか」  決めつけたロイド眼鏡の男は、急に腹だたしげな表情になり、まだ長い葉巻を、チェコスロバキア製の灰皿にこすりつけた。 「そもそも最初から、私はこの計画に反対だったのだ。鎌倉の御前《こぜん》が亡くなって以来、吾々も油断すれば、とんでもない無能な奴らの下風《かふう》に立たねばならぬかもしれぬというのに、こんな火遊びをしている暇があるのかね、え、藤木《ふじき》君」  電話をしていた最初の男——日本兵器産業運盟事務局長の藤木|健三《けんぞう》は、薄く笑ってみせた。「だが、あんたも反対はしなかったじゃないかね、高沼《たかぬま》さん」  ロイド眼鏡の男は、高沼|勝作《しょうさく》という。茨城県にある国立関東技術科学大学の副学長であり、日本核エネルギー振興協会の理事であった。 「ふん、それは君がいかにも自信満々だったからだ。君は私のような青白きインテリとはちがう。実務能力も行動力も抜群ということになっていたはずだが……」 「まあまあ、ふたりとも、そのくらいにしておきたまえ」  三人めの男が片手をあげて、次元の低い口論を制した。小柄で頭がはげあがり、皮膚のたるんだ、これまた六〇歳前後の人物である。「道徳再建協議会」の専務理事である前川《まえかわ》菊次郎《きくじろう》だった。政界や財界の超保守派から資金を集め、日本の伝統的な道徳教育で青少年を育成すると称している、自称教育家である。 「藤木君も、高沼君も、国を愛し世を憂《うれ》える同志ではないかね。ささいなことで角をつきあわせることもあるまい。ここはひとつ、わたしの顔をたてて、仲なおりしてくれ」  前川は権力機構からのおこぼれを吸いとる寄生虫でしかなく、「道徳」など彼の個人的な利益を追求する手段でしかない。その前川が、えらそうに仲介役を買ってでるなど、笑止《しようし》のかぎりであったが、藤木も高沼も、しぶしぶその仲介を受けいれた。実際、仲間われしている場合ではなかったのだ。  ふたりが気を静めるようすを見て、四人めの男が、ブランデーグラスを手にしたまま、口を出した。 「フェアリーランドで奴らを拉致《らち》するのは失敗した。すんだことはしかたないが、つぎはどう策《て》を打ちますかね、藤木さん」  この男は、藤木たち三人より若い。といっても、五〇代である。政権をにぎる保守党の機関紙「日本新報」の論説委員長である一宮正親《いちのみやまさちか》だった。目鼻だちは紳士風にととのっているが、両頬がげっそりとこけて、それが陰険そうな印象を与える。  不機嫌そうに、藤木は、あごをなでた。視線を窓外に放ち、闇と光が交錯するメガロポリスの夜景をながめやる。 「あの竜堂一族とやら共和学院とやらにからんだ騒動は、不手際《ふてぎわ》もいいところだった。甥たちに殺されたはずの院長一家が、のこのこ無事な姿をあらわしたのだからな。吾々が長い間の努力で、マスコミを骨ぬきにしていなかったら、事態は、警視庁刑事部長の首ひとつでは、おさまらなかったろう」 「藤木君は秀才だな。つねに復習をおこたらん」  高沼の、毒のこもったつぶやきを、ことさらに無視して、藤木は仲間に問題提起をした。 「いまさらのことだが、船津老は、何をああもあせっておられたのだ? 時間さえかければ、無名の民間人ごとき、煮るも焼くもほしいままであったはずなのに、かなりむりをなさった」 「しかし、それは何といってもご高齢だったからでしょうな」  一宮がそう答えた。  この年六月、船津《ふなづ》忠巌《ただよし》という九〇歳の老人が死んだ。死因は老衰とされ、ごく一部のジャーナリズムに、ごく小さな死亡記事が載《の》った。老齢の中国哲学者が死んだことなど、大部分の日本人には何の関係もないことだった。  表面的には、である。  政界、財界、宗教界などの底流に荒れくるった嵐は、小さなものではなかった。まず、陸上自衛隊がこうむった大きな被害を隠し、事後処理をおこなわねばならなかった。「原因不明」の豪雨と洪水のあとしまつもある。  そして、つぎに来るのは、権力社会の地下構造を再編成することであった。あらゆる分野に、呪術《じゅじゅつ》的な支配力をおよぼし、首相や日本産業団体連盟会長すらも下僕《げぼく》のようにあつかってきた怪異な老独裁者が消えうせてしまったのである。 「御前《ごぜん》」と呼ばれていた船津老人には、後継者がいなかった。日本の地下権力は、主人がいない状態になってしまった。つまり、戦国時代が到来したわけである。  七〇代、八〇代の政治家、財界人、宗教家、文化人たちが、欲望に目の色を変えた。うまくすれば、自分が、日本の地下権力を独占できるかもしれないのである。  六〇代、五〇代の「若造《わかぞう》」たちは、年長者たちに無視されてしまった。だが、彼らにも、欲望や野心があった。甘い果実を食う順番がまわってきたとき、すでに腐っていたとあってはたまらない。 「船津老は偉大な方だったが、惜しいことに、国家や民族の狭い枠にとらわれておいでだった。もうそんな時代ではないのだ。いまこそ吾々《われわれ》が時代の変化をになうべきなのだ」 「時代の変化と、今度の件と、どういう関係があるのかね」  高沼がロイド眼鏡を光らせた。 「あの竜堂兄弟とやらいう連中に、いったいどのような利用価値があるのだ。私としては、いまさらだが、疑間を感じるところだがな」 「まずあの竜堂兄弟とやらを掌《てのひら》のうちにおさめる。利用法を考えるのは、それからでいい。いや、奴らはどうやら、手中にいれただけで、充分に価値がある存在らしい」 「すべては推測か」  高沼の声に、前川の声がつづいた。 「まさか、その連中、船津老人の落胤《らくいん》というのではなかろうな」  これほど的をはずした推測もなかったが、誰も笑わなかった。陰惨な疑惑の光を目にたたえている。権力病の重症患者にとって、どのような妄想も妄想とは思われないのだ。 「それはそれとして。肝腎《かんじん》の件だが、監視役の連中から報告があった。それによれば、竜堂兄弟は、まんまとフェアリーランドから逃げ出した。湾岸道路を東京へとむかっているらしい」  藤木はそう状況を説明し、けわしい視線を、室内の一隅にすえた。 「奈良原《ならはら》!」  傲然と呼びすてる。  名を呼ばれた五人めの男は、ソファから立ちあがり、直立不動の姿勢をとった。警備保障会社の社長、奈良原昌彦である。年齢も、地位も、一同のなかではもっとも格下の男であった。つい先だってまで、内閣官房副長官|高林《たかばやし》健吾《けんご》の子分だったが、高林が船津忠巌老人の不興をかって秘《ひそ》かに粛清《しゅくせい》されてしまうと、もぐらのように自分の会社に引っこんでしまった。  だが、無政府状態のなかで、奈良原が持っている「物理力」には、それなりの使途《つかいみち》がある。藤木や高沼のグループは、暴力や腕力が必要になったときに、奈良原と彼の部下たちを使おうとしていた。なにしろ、二一世紀日本の地下権力者の座がかかっているのだ。暴力によって事態が決するのであれば、それにそなえなくてはならない。 「お前の出番だ、期待させてもらうそ」 「かしこまりました」 「もしすべてがうまくいったら、お前を、代議士ぐらいにはしてやる。心配するな、日本は。もと暴力団員の傷害犯でも閣僚級政治家になれる、ありがたい国だ」 「は、おそれいります」  筋骨たくましい身体をちぢめて、奈良原は低頭した。 「それでは、部下どもと打ちあわせがありますので、三〇分ばかり外《はず》させていただきます」  一時退出した奈良原は、エレベーターでロビーにおり、そこで待機していた部下に、てばやく指示をすませた。  ところが、そのあと奈良原は、すぐにプレジデントルームへはもどらなかった。八階でエレベーターをとめ、八二二号室にはいる。そこはシングルルームではあったが、高級ホテルを自認するだけに、調度も北欧製で統一され、上品げな雰囲気だった。下品そうなのは、部屋の借主である奈良原だけである。  奈良原は電話に歩みより、受話器をとりあげた。相手が出たとたん、尊大そうな態度をすて、うやうやしく腰をかがめる。 「あ、先生、奈良原でございます。はい、例の件に関しましては、先生のお考えどおりに事が運んでおります。藤木や高沼は、何も気づいておりません。自分だけがりこうだと思いこんでおるようで……はい、はい、万事お指図《さしず》どおりにいたしますです」  電語を切ると、奈良原は大きな息を吐きだし、誰にともなく毒づいた。 「ふん、どいつもこいつも、自分だけが何でも知っていると思ってやがる。そう思っていられるうちが幸福ってもんだろうさ」       ㈼ 「どんなときでも生き残る」  というのが、竜堂家の不文律となった家風である。フェアリーランドの大混乱からまんまと逃げおおせた竜堂家の四兄弟は、自分たちの車で、湾岸道路を東京方面にむかっていた。この車はもともと祖父の所有物で、もう八年も乗っている古参兵の国産中型車である。  道路の左手に、延長二キロの人工なぎさが広がっていた。自然のなぎさを埋立てで破壊したあげく、わざわざ費用をかけて造成したものだ。ばかばかしい浪費か、それとも、ようやく自然環境の貴重さがわかったというべきだろうか。  湾岸道路は、フェアリーランドの大騒動の余波をこうむり、あまりスムーズな通行はできなかった。長蛇《ちようだ》の列に巻きこまれ、時速二〇キロほどの、のろのろ運転を強《し》いられる。それも、三分走っては二分とまる、その繰りかえしである。  助手席にすわっていた続が、シートの隅に置かれた歴史学会の会員リストを見つけてページをめくった。 「兄さん、正会員になったんですか。この会の?」 「なったんだが、それがあんまりよくない」 「どうしたんです?」 「おれの名前のところをよく見ろよ。龍[#「龍」に傍点]堂始と書いてあるだろうが」  一般的に、「竜」という字は「龍」という字の簡略体だと思われている。だが、じつは「竜」という字のほうが古い形なのであり、長大で神秘的な生物の象《かたち》をよくあらわしている。  竜堂四兄弟の祖父|司《つかさ》は、第二次世界大戦のさなか、反戦思想の持主として特高警察に逮捕された。そのとき、調書に「龍[#「龍」に傍点]堂司」と書かれたため、「龍」を「竜」と書きあらためたところ、「生意気な!」と竹刀で横顔をなぐられ、片耳の鼓膜が破れてしまった。とにかく、竜堂家は、江戸時代初期からずっと「竜[#「竜」に傍点]堂」を名乗っている。「龍[#「龍」に傍点]堂」と称したことは一度もない。 「人の名前を勝手に変えやがって」  と、始は機嫌が悪い。続は、くすりと笑って、そのリストを助手席のシートの下に放りこんだ。 「兄さん、たしか、原稿書きの仕事もきてたでしょう?」 「ああ、アトランチスだったか、レムリアだったか、そんな名前の雑誌だったな。ジンギス汗は源義経の後身であるという特集を組むから何か書けといってきた」 「書くんですか」 「ばかいえ。ジンギス汗の出生には謎なんか何もない。生まれた年月日がはっきりしないだけで、両親も祖父母もはっきりわかってる。いくら失業したって。そんなよた話が書けるか」  言い放ってから、始はバックミラーを見やった。 「余は? 眠っちまったか」  眠りこんだ弟を肩に寄りかからせた終が、器用に、反対側の肩をすくめた。 「いい度胸だよ、まったく。おれなんか気が静まらなくて眠れっこないのにな」  すると助手席の続が、急に本の名前を列挙《れっきょ》しはじめた。 「西遊記、三銃士、それにオズの魔法使……」 「何だ、世界名作全集か」 「こういった物語には。不思議な共通点があるんですよ。四人グループの中で、いちばん潜在能力のある人物が、ふだんは他の三人から守られる立場なんです。西遊記の三蔵法師、三銃士のダルタニアンというぐあいにね」 「若草物語は?」  三男坊が尋ねたが、年長者ふたりは相手にしなかった。 「ぼくたちもきっとそうなんですよ。そう思いませんか、兄さん?」 「続、お前さん、ときどき、えらくもったいぶった言いかたをするね」 「父兄から受けた教育が悪かったんでしょう、きっと」  ぼくは一五年間も兄さんの教育を受けてきたんですからね、と、続は笑った。 「じゃ、おれがまるで諸悪の根源みたいじゃないか」 「あれ、そう聞こえませんか」 「おれにはそう聞こえたけどなあ」  と、前部座席の背もたれに両肘をついて、終が笑った。ちょうど停車を強《し》いられたところだったので、始は片手を動かして、すばやく引っこめようとした終の頭を、ぽかりとたたいた。 「痛えなあ、体罰って教育によくないんだぞ。教育と、おとなに対する不信感をはぐくむだけで、ろくな結果にならないんだぜ」 「そうかそうか、結果がもう出てるんだから、原因が遠慮する必要はもうないな」 「ちょ、ちょっと待ってよ。ええと、そうだ、おれさ、兄貴がよけいに小づかいくれたら、教育とおとなをもう一度だけ信じてもいい」 「いやいや、むりをすることはない。教育に対する不信こそ、子供がおとなに成長する第一歩だ。早くおとなになって、おれに仕送りしてくれよ、終」 「絶望するのは早いよ、兄貴。やっぱりさ、理想をつらぬくにはねばりづよくなくちゃ」  兄と弟の会話を、くすくす笑いながら続は聞いていた。聞きながら、昔の光景を、ふと恩い出している。  続が九歳のとき、自分が他の人間と異《こと》なる存在であることが、非常に気になり、自已嫌悪で暗い気分におちいったことがあった。そのとき、祖父母の説得も受けつけないで部屋にこもっている続のところへ、始がやってきて話しかけたのだ。 「なあ、続、お前やおれがこんな風に生まれたのは、おれのせいか」 「いえ、ちがいます」  九歳のころから、すでに続は、そういうものいいをするようになっていた。 「じゃ、お前のせいか、こんなぐあいに生まれたいと思ったのか」 「いえ、ぼくのせいじゃありません」 「そうだろ? だったらお前が気に病《や》む必要なんかないよ。おれたちは、自分自身のせいでおこったことには、責任をとらなきゃならない。でも、そうでないことには、責任をとる必要ないぜ。でないと、そのうち、富士山が爆発するのも、宅急便が遅れるのも、おれたちのせいってことになっちまうぜ」  未熟な論理だが、始は、弟の精神的な負担をとりのぞこうと、一所懸命に説得したものだった。  それがちょうど一○年前のことである。以後、続は、自分たち兄弟と他人との差異について、悲劇っぼく思いわずらうことをやめた。非建設的な思念から解放されると同時に、続は、何か世のなかにたしかな足場をえたような気がしたものだ。  それにしても、自分ひとり、あるいは弟たちがそれぞれひとりきりの存在であったら、はたして孤独に耐えられただろうか。四人いっしょで、しかも長兄が揺《ゆ》るぎなく中心に立ち、弟たちの精神的な負担を軽くしてくれたからこそ、現在のように。陽気で、明朗で、不敵でいられるのだ。だから続は、兄の判断や決断には必ず従うし、ささいなことで兄をわずらわせることがないよう、事務的なことはすべて処理し、裁量《さいりょう》していた。いまも、湾岸道路ぞいのスタンドの前に車をとめてもらって、補給にかかったりしている。 「あ、すみません。ホットドッグを一ダースとフライドチキンを四箱、それにコーラの大瓶を三本ください」  徴笑すると、女の子はお客の夢幻的なまでの美貌に数秒間みとれ、我に返って、大いそぎで品物をそろえた。大きな紙袋をかかえて車にもどると、兄に片目をつぶってみせる。 「補給がなくて戦争はできませんからね。せいぜい準備をととのえておきましょう」 「やれやれ、どうやら第二回戦がありそうってわけか」  始の視線が、夜空に伸びる。小さな赤い灯を点滅させて、飛行船が彼らの頭上に浮かんでいる。すこしずつ夜空を移動して、竜堂兄弟を追跡しているのだ。 「それじゃ補給本部長の心づかいだ、エネルギーを充填しておくとしようか」  始の一言で、終が弟を揺りおこした。  車内で、にぎやかな食事がはじまる。始も、片手でホットドッグを持って。ときおり口に運びながら、もう片方の手でハンドルをあやつっていたが、ふいに、せきこむような表情で、口に手をあてた。 「どうしました、兄さん!?」 「いや、マスタードのかたまりが……でっかいやつが」  涙をこぼして、竜堂家の長男は、弟からコーラの紙コップを受けとった。口内の火事が静まると、ふう。と息をついた。おちついたところで、話題をかえる。 「気づいたか? いよいよ、おれたちに用があるらしい」 「ほんとうに、今夜はよくもてますね」  食事あとの紙くず類をまとめながら、続が苦笑した。苦笑しつつ、満腹の態《てい》の終に合図する。  終が窓から顔を出し、さらに上半身を乗り出して、夜空を見あげた。複数の赤い光が、急速に近づいてくる。飛行船ではない。耳ざわりな爆音が拡大してくる。 「……ヘリか!」  黒く太いワイヤーロープが、車体の左右に、揺れながらおりてきた。       ㈽  ヘリが竜堂兄弟の乗った車を吊《つ》りあげようとしているのだ。ロープの先には、かなり強力な磁石がセットされており、それが音をたてて車体に吸着した。竜堂兄弟が知る由《よし》もなかったが、このワイヤーロープと磁石の組みあわせは、三本もあれば、陸上自衛隊の制式戦車を吊りあげることもできるのである。 [#天野版挿絵 ]  そしていま、車体の左右と屋根に、合計三本のワイヤーが吸着していた。  その光景を見て。渋滞した車から外に出たドライバーたちが騒ぎだした。 「おい、ありゃ何をやってるんだ。警察に連絡しなくていいのか」  すると、路傍にたたずんでいた男が、やじ馬たちのほうに顔をむけた。どこか猿に似ていた。 「ああ、ロケですよ、映画のロケです」  愛想よく男は笑って、日本人の過半数が名を知っているといわれるアメリカ人の映画監督の名をあげた。 「湾岸道路を舞台にして、車とヘリのチェイスをやるんです。このシーンだけで、費用を五〇万ドルかけるそうですよ」 「へえ、そいつはすごい」  現代の日本人は、滅亡期のローマ人のように、イベントを、あらゆる価値の最上に置く。イベントのために、どれほど非常識なことがおこなわれても当然だと考える。イベントに反対する者は、変人あつかいされるだけですむなら幸運というべきだ。  三機のヘリは、赤い光を点滅させながら、夜空に空中停止《ホバリング》していたが、やがて三機そろってわずかに上昇を開始した。それにつれて地上の車体が持ちあがる。 「あっ」という叫びが、複数の口からもれたのは、その直後である。路上、わずか一〇メートルの高度にまで降下していたヘリの一機が、ぐらりと機体をかたむかせたのだ。あわててバランスを回復させ、上昇しなおそうとしたが、ワイヤーロープが行動の自由をはばんだ。ヘリは失速し、さらにかたむき、地表につっこんだ。  最初に閃光があり、一瞬にしてそれがオレンジ色の炎に変わった。ほとんど同時に、轟音が人々の耳を乱打した。 「うわあ、すごい、すごい!」 「さすがにUSAはやることがちがうぜ」  興奮の声がとびかうなか、二機めのヘリも失速し、回転しつつ墜落した。音と光が波だって、やじ馬たちをおそう。  さらに第三の爆発が生じ、オレンジ色の色彩が、人々の視界にひろがった。ごうっと音をたてて、熱風が吹きつける。さすがに不審を感じて、やじ馬たちが顔を見あわせ、たじろいで、二、三歩あとずさった。  上空から見おろすと、湾岸道路はオレンジ色の帯になって、不夜城東京の東南縁を、海とくぎっているように見えたであろう。 「コーラ瓶一本で機能マヒするなんて、湾岸道路もだらしないなあ」  終の台訶《せりふ》は。原因と結果を論じてはいるが、途中経過がみごとに欠落している。ヘリの回転翼《ローター》にコーラ瓶を投げつけ、三機ともに「撃墜」してしまったのは、竜堂家の三男坊であった。  三機のヘリは炎と煙を噴きあげて燃えあがり、ときおり小さな爆発音をひびかせた。黒煙が夜風に乗って路上を走り、ドライバーの視界をさえぎる。 「逃げろ! 燃えひろがるぞ!」  もはやロケなどではないことをさとって、やじ馬たちはどっと逃げだした。  すばらしい速さで、それにまぎれこんで、竜堂兄弟も逃げだしている。車は見すてざるをえなかった。始の合図で、兄弟は渋滞した車の屋根にとびのり、それを伝って駆けだした。  車内のドライバーが、うろたえてわめいた。 「おい、何をするんだ。どういうつもりだ!」 「ごめんなさい、すみません」  怒声に対して、いちいち余は謝罪しているが、自動車の屋根から屋根へとびうつることはやめなかった。渋滞した自動車専用道路では、これがもっとも速く移動する方法なのだ。ただし、竜堂兄弟なみの活力と軽捷《けいしょう》さをそなえていれば、だが。  一部の日本人が「世界でもっとも先進的なハイウェイ」と信じている湾岸自動車道路は、いまや、ぶっそうな障害物競走のコースと化してしまった。  東京方面からフェアリーランドへ、また炎上現場へ駆けつけようとするパトカー、消防車、救急車の列も、渋滞を突破することができず、ヒステリックなサイレンの咆哮をとどろかせるだけだ。それに、車をあきらめきれないドライバーたちのクラクションがまじり、湾岸道路は、けたたましい騒音に埋めつくされた。パトカーの窓から首を出した警官が、身うごきできない車の列の上を走りぬける竜堂兄弟の姿を見つけて、目を丸くした。 「そこの怪しい者、とまりなさい!」  マイクをとおした命令は、竜堂兄弟の足をとめることができなかった。年長組のふたりは、警官の命令などというものは無視することに決めていたし、年少組のふたりは、自分たちを怪しい奴だなどとは思ってもいなかったのである。  大小四つの人影は、いまや世界一長大な有料駐車場と化した湾岸道路を、否、車の列の上を、二キロにわたって駆けぬけた。 「このやろう、どういうつもりだ!?」  車の列がとぎれ、竜堂兄弟が路上にとびおりたとき、彼らの前後を若い男たちがとりかこんだ。髪型、服装、表情のすべてに、「典型的な暴走族」と描いてある。自慢の愛車の屋根を踏まれるわ蹴られるわで、頭に血が上ったのであろう。手に手に木刀だのチェーンだのスパナだのをつかんで、間答無用の態《てい》でおそいかかってきた。 「間が抜けたもの、その一、交通渋滞にひっかかった暴走族!」  右と左に、竜堂兄弟のこわさを知らない男たちを蹴りたおして終がいうと、余が応じて、 「ありそうでないもの、その一、家具屋で万引《まんびき》するやつ!」  生命がけの障害物レースをやりながら、クイズごっこなどやっている。年少組の危機感のなさに、始はあきれた。いささか余裕がありすぎる。逆上してつかみかかる暴走族たちを。あるいはかわし、あるいは放りなげ、あるいはなぐりつけて、彼らの身体を路上につみあげる。 「いいかげんにしろ、騒ぎをこれ以上、大きくするんじゃない」  そう弟たちを制する始の後頭部に、スパナがたたきつけられた。鈍い音がたつ。昏倒どころか、よろめきもせず振りむくと、始は、スパナ片手に呆然と立ちつくした暴走族を、誠意をこめてなぐりとばした。  いまどぎ頭髪をモヒカン刈りにしたその若い男は、口から歯と血をまきちらしながら宙を飛んで遮音《しやおん》フェンスにたたきつけられた。おそらく被選挙権をえる前に、総入れ歯をはめる人生を送ることになるだろう。 「世のなかには、けんか好きの平和主義者がいるんだ、以後、注意しろ」  始が両手を払ったとき、弟たち三人の手で、彼の周囲には、気絶体が生ゴミ袋のように散乱している。数人の警官が息を切らしながら追ってきたので、ことめんどうと、兄弟はさっさと逃走に移った。  五分ほど走ると、炎も喧騒《けんそう》も遠くなった。四人はスピードをゆるめ、夏の夜風を受けて路面を歩きはじめた。始が撫然《ぶぜん》として髪をかきあげた。 「ろくな日じゃないな、まったく」 「ええ……でも兄さん、過去形でいわないのは、理由があるんですか」 「理由? 理由はあれさ」  始が左手の親指で、闇の一点をさした。それが三回戦のはじまりだった。危険な気配が瘴気《しょうき》のように立ちのぼり、その核《コア》には実体があった。靴音がひびいた。 「ご苦労だが、同行してもらおうか、竜堂君」  優越感と悪意にみちた声がして、闇のなかに人影が浮かびあがった。始と続、終と余は、それぞれ顔を見あわせ、肩をすくめた。  にぎやかな夏の夜は、まだまだ終わりそうになかった。       ㈿ 「ずいぶんと、てこずらせてくれたな。だが、お遊びはここまでだ。ここからモーターボートに乗ってもらい、おとなしく目的地へ行ってもらうよ」  この男は伝奇アクション小説の愛読者なのかもしれなかった。それともハードボイルド冒険小説だろうか。どこかで聞いたような台詞《せりふ》を、得々《とくとく》として使う男である。  自分の立場の優越を信じきっていた。自分たちには拳銃があり、人数も一〇人。竜堂兄弟は手錠をかけられている。まさか始が、そのモーターボートをちょうだいするつもりで従順をよそおっているとは、気がつきもしなかった。  東京湾上、お台場公園の岸だった。東京湾をへだてて、中央区や港区の灯火が、夜空の下に光の海を形づくっている。夜風は肌にここちよく、恋人どうしであれば、ロマンチックな気分に陶酔《とうすい》できたことだろう。  一〇人の、兇悪な男に包囲された竜堂兄弟は、むろん、そんな気分になれなかった。 「ねえ、兄さん、ぼくたちは今日、動物園に来たんでしたっけ」  続のささやきに、始は失笑するところだった。男たちのリーダーは、奇妙に猿を思わせる顔つきだった。フェアリーランドではラビットマンとやりあい、湾岸道路を経てお台場では猿男に対面している。続が皮肉りたくなるのも、もっともだった。 「おれたちが竜堂だからさ、十二支のうち三つがそろったわけだね」  終がささやくと、猿男が鋭く制した。 「しゃべるな! 静かにしていたまえ」  始が、ことさらに笑ってみせた。 「聞いたか、続。世紀末の魔都だとこういうこともおきる。猿の仮面をかぶった犬が、人間のことばをしゃべるんだからな。ときどき人間をやってるのに疲労を感じるよ」  お台場は、闇より厚い沈黙につつまれた。モーターボートに乗せられる寸前、竜堂始がなぜ突然、このような毒舌をふるいだしたのか、猿男には理解できなかったようだ。  続が兄に応じた。 「国民の税金で養ってもらってるくせに、国民を害しようとする奴らが権力をほしいままにする国です。そのうち人間が四つんばいになって、犬が立って歩くようになるでしょう」 「犬の時代だな」 「犬以下ですよ。犬だって三日も餌をもらえば恩を感じる。ところが公安警察って奴らは、電話は盗聴する、市民運動家の家を口実をつけては捜索する、ひどいものですからね」  猿男が薄気味わるく声を低めた。 「我々が公安警察だというのかね、君たちは」 「これほど高圧的で無能なのは、公安警察以外に考えられませんからね」  猿男は歯をむきだした。 「おあいにくだったな、私たちは公安警察などではない。もっと高度の指令体系に属する者だ」 「ちがうんですか」 「ちがうとも」 「……だそうですよ、兄さん」 「そうか」  危険な笑いを口もとにひらめかせて、始はうなずいた。猿男は自分たちの身分を明らかにしなかった。つまり、大いに後ろ暗い立場だということだ。  猿男の合図で、男たちが竜堂兄弟それぞれの左右に立って両腕をつかんだ。最初にモーターボートに乗せられそうになった続が兄をかえりみた。 「もうやっていいでしょう、兄さん?」 「よろしい」  重々しく、始は実力行使を許可した。 「やったね」  にっこり笑って言ったのは余で。天使のような顔だちの少年が、かるく両手を動かすと、ジェラルミン製の手錠が音をたてて弾《はじ》けとんでしまった。猿男がロをあけた。声を出す間もなく、これも手錠を引きちぎった終が、高くジャンプした。三男坊の足がとんで、男のひとりを蹴倒し、着地すると同時に、いまひとりのむこうずねをローキックで蹴りくだいた。スピードといい、パワーといい、男たちに対抗できるものではなかった。  銃声はおきなかった。発射する以前に。全員がたたきのめされ、地にはっていた。血へどを吐き、折られた肋骨やひざを押さえ、苦痛の泣声をあげてもがいている。これまで蓄積してきた暴力行為の反動を、一時に受けたようであった。  猿男は腰をぬかしかけていた。彼ひとりが無傷なのは、拷問にかけられるためだ、と思ったかもしれない。ぎくしゃくした動きで身体の向きを変えかける。その前に、三男坊が立ちはだかった。 「兄貴、こいつをどうする?」  終の好戦的な瞳に出会って、猿男は、ひええ、と、なさけない動物めいた声をもらした。 「かわいそうに、せっかく憶《おぼ》えた人間のことばを忘れてしまったようですよ。帰ったら、さぞ飼主に叱られるでしょうね」 「猿の飼主というと桃太郎かな」  皮肉っぼく笑うと、始は、もはや完全に腰をぬかした猿男の肩を靴の先で軽く押した。猿男は完全にひっくりかえり、目をむいてしまう。 「帰ったら桃太郎によく伝えておけよ。鬼ケ島の鬼たちは、平和に幕らすのが好きです、いくら宝がほしいからといって、昔の日本軍みたいなまねをしちゃいけません、とな」 「き、き、きさまら……」  猿男は。血走った目と声で、ようやくあえいだ。彼はこれまで自分の強さを信じて疑わなかった。権力に裏づけされた暴力こそが、この世でもっとも強いものだと信じていたのだ。  日本では、拷問が法によって禁じられてはいる。だが、多くの冤罪《えんざい》事件で、拷問じみたやりかたで無実の人に偽の自白をさせた警官が、個人的に罪を問われることはない。賠償金が支払われるにしても、それは国庫からである。国家と法という盾に守られて、身を守る術《すべ》のない市民を痛めつけるほど楽しいものはないはずだった。それを、この兄弟は……。 「きさまら、きさまら、いいか、きさまら……」 「終、この小うるさい猿に水あびをさせてやれ。熱帯夜にはちょうどいい」 「勅命《ちょくめい》、うけたまわった」  終は、わめきつづける猿男の襟首をつかむと、片手で軽々と持ちあげた。手足をばたつかせる猿男を、わずかな反動をつけて放りなげる。夜空を飛んでいく猿男の口から「おぼえてろおおお」という呪詛《じゅそ》の声が尾を引き、やがて夜の東京湾に水音がたった。  高輪のホテルでは、プレジデントルームの一同に対して、奈良原が身をちぢめていた。 「面目ございません。ターゲットは、湾岸道路から海上へ逃がれたようです」 「ふん……」  奈良原の失策を罵倒するかと思いのほか。藤木はあっさり現状を是認《ぜにん》した。 「追いつめられて判断を狂わせたようだな。人の少ない東京湾上なら、かえってこちらにはつごうがいい。空と海から奴らをはさみうちにしろ。まだ時間はたっぷりある」  自信満々であったが、いずれ、彼こそ思い知るだろう。竜堂兄弟がことさらに海上を選んで脱出ルートとしたのは、逃走を目的としてのことではなかった。「敵」の組織力など、始や続は、とっくに承知していたのだ。  暗い海上にすべり出した大型モーターボートの船上で、始と続は、てばやく相談をまとめた。基本構想を始が出し、続が実戦レベルでの技術案で応じ、始が了承する。長兄と次兄、司令官と参謀長の呼吸は完全だった。 「さて、誰もいない海上に出た。奴らは喜んで、はでに攻撃してくるだろう。そこでだ、もうほんとうに遠慮はいらない。終、思いっきり、奴らに損害をくらわせてやれ」 「そう来なくちゃ!」  これまで遠慮していたわけでもないくせに、あらためて終ははりきった。  竜堂家の家訓に、「反撃」という語句はあっても、「逃走」という語句はないのだ。いずれ猿男の飼主どもは、それを思い知ることになるだろう。 [#改ページ] 第三章 「ロンドン橋落ちた」       ㈵  竜堂家の四人兄弟が乗ったモーターボートは、ゆるやかに東京湾岸を西南方向へただよっていった。始も続も、モーターボートの操縦免許を持っていないし、第一、それほど急いで行くべき目的地があるわけでもない。  船べりを背にして甲板に腰をおろした始のそばに、続も腰をおろした。 「兄さん、何を考えているんです?」 「べつに……」 「あててみましょうか。おれは二三歳にしては苦労が多すぎる。好戦的な弟どものおかげで、えらい迷惑だ、と、そういうところでしょう」  そんな台詞《せりふ》を続が口にするのは、兄が何となく考えこんでいるように見えたからであろう。始は軽く苦笑した。 「続、あの船津忠巌老人な」 「ぼくたちがこれまで会ったうちで、いちばん不愉快な老人でしたね。過去形で言えるのがうれしいですけど、それが?」  あの老人が富士であんな死にかたをしてから、おそらくこの国の権力社会は、戦国時代に突入したのかもしれない。そのなかの一部勢力が竜堂兄弟に目をつけたとすれば、今後、連鎖反応が生じる可能性は、いくらでもある。 「どうも浅慮《せんりょ》だったらしいなあ。支配力というか権威というか、そんなものの枠《わく》がはずれて、老人の手下どもがやみくもに跳梁《ちょうりょう》しはじめているのかもしれん。かえって始末が悪いことになってしまったようだ」 「といって、あの老人を生かしておいて、ぼくたちに対する不法な攻撃をつづけさせるわけにもいきませんでしたでしょう?」  続のやわらかい音楽的なテノールが、兄のとりこし苦労をつつみこむようである。生まれながらの長男坊は、両手を後頭部で組んだまま。だまって弟の声を聴いていた。 「世の中の人たちは、ほとんどすべてが、権力とそれに裏づけされた暴力の前には無力です。このごろでは、無実の罪で死別になりかかった人が、国家に賠償を求めても、その裁判で負けてしまうほど、日本の政治権力は非民主的で硬直化しています。法ですら、しばしば市民を見すてる。法をさだめる連中が、結局、ほしいままにふるまい、人の権利を侵す 続が兄の横顔を見つめた。 「でも、ぼくたちには、それに抵抗できる力が多少なりとあるはずです。あの老人は、戦前も戦後も、強大な力をふるって他人を支配してきました。今後もそうなるはずでした。それが勝手に自滅しただけのことです」 「自滅か。そうだな」  始は言葉の中で肩をすくめた。船津老人は、注射した竜種の血の変質によって死んだのであって、始や続の力で打倒されたのではなかった。 「だから、ぼくたちがああいった連中を、のさばらせないようにするのは、自然の理を代行しているだけのことなんですよ」 「つまり正義の味方ってわけかい?」  兄たちの前にあぐらをかいた終が、自分たちの立場を、おもしろそうに要約した。終のそばに余もすわりこんで、モーターボートの甲板は、にわかに家族会議の場になった。 「正義じゃないですよ、終君、自然界のバランスの問題です」 「だがな、続、おれたちがそのつもりでも、船津老人の手下どもにとっては、それこそが秩序を乱す無法行為になるのさ」  始が手の位置を後頭部からひざへ移した。 「奴らは自分たちが強者だと思っている。なにしろ、法と社会秩序をつくり、管理しているんだからな。で、ここにおいて、自然ないし天界の理と、現在の日本の社会とは。まっこうから衝突することになる」 「そしたら、日本にいることなんかないぜ、兄貴」  終が断言した。 「おれたちって、たまたま日本に生まれただけのことだもの。これから生きていく場所、死ぬなら死ぬ場所を、自分たちで選んだっていいじゃないか。兄貴がそのつもりなら、このままボートでどっかに行ったって、おれはかまわないぜ」 「ほら、兄さん、みんな同じ考えですよ。兄さんが、どこかへ行こうと決断して、指揮してくれたら、竜堂家の全員。兄さんについていきます」 「ばらばらになるのはいやだよ」  余が真剣な光を黒い瞳にたたえて長兄を見あげた。 「これまでずっといっしょだったんだもの。これからもずっといっしょにいようよ」 「そうさ、始兄貴って、見てて頼りないからな。おれたちがついててやらないと、どうなるのやら心配だよ」  生意気いうな、とは始は言わず、苦笑っぽくうなずいて、終の頭をかるく指先でつついた。 「まあ、みんな、そう先ばしらなくてもいいさ。さしあたり、まだ夜が明けたわけでもないからな。何がおこるかわからないんだから、すこし休んでおけよ」  このまま何もなく夜が明ければ、それにこしたことはない。そう始は思う。終や余は、かえって不満に思うかもしれないが、できれば弟たちを、危険というより、暴力的な場面にさらしたくないのだ。  始と続は、すこし話を変えた。船津老人が生前に語った邵《しょう》継善《けいぜん》という人物についてである。この人物が著《あらわ》した「補天石奇説余話《ほてんせききせつよわ》」という書物に、四海竜王とその封土について記されているというわけだった。 「そもそも、邵継善とは何者か、それがじつにあいまいなんだ」 「五世紀の中国、南斉《なんせい》王朝の官僚政治家で、同時に文人。そうでしょう?」 「……とまあ、本人が書いているそうだが、どこまで信じてよいものかな」  南斉という王朝は、西暦四七九年に建国され、中国大陸の南半を支配した。この当時、中国社会は大貴族が富と権力を独占し、皇帝すらも彼らの顔色をうかがわなくてはならなかった。そこで、南斉第二代皇帝の武帝《ぶてい》という人は、大貴族たちをおさえつけて皇帝権力を確立するために、寒人《かんじん》を登用した。寒人とは、つまり。「地位も富もない、非名門の出身者」という意味である。これ以来、南斉王朝では。皇帝・寒人派と大貴族派との抗争がつづく。  こういった寒人出身者のなかに、邵継善がいた。ということになっている。「補天石奇説余話《ほてんせききせつよわ》」の自序《じじょ》に、いわば著者の自己紹介が載《の》せられているのだが、なにしろ「補天石奇説余話」という書物それ自体、明《みん》代か清《しん》代の偽書だという説がある。題名からして、中国の書物としては、あたらしい時代のもののように思われる。  とにかく、その自序によれば、彼は、南斉の皇帝|明帝《めいてい》につかえた。この明帝という人は、権力欲が強く、もともと皇族出身の重臣だったが、皇帝を殺して自分が帝位につき、さらに皇族二〇人以上を殺警して権力を独占した。だが、一方では有能で勤勉な政治家であり、生活は質素で、民衆の支持があったという。  邵継善は、明帝のもとで「主帥《しゅすい》」という地位について、貴族たちを監視した。だが、明帝の治世がわずか四年で終わり、「東昏侯《とうこんこう》」と呼ばれる暴君が帝位につくと、宮廷を去って帰らなかったという。  で、この邵継善なる人物の名が、正史にあらわれていれば、まず問題はない。正史とは、中国の歴代王朝が公認する歴史書のことであって、「史記」、「漢書」、「三国志」、「明史」など二十四冊あり、これを「二十四史」と称する。中国史上の皇帝全員、それにおもだった皇族、貴族、武将、政治家、学者、文人などは、まずそれに伝記を載《の》せられている。ところが、正史である「南斉書」のなかに、邵継善の名はない。  まあ正史に載るような大物ではなかった、といえばそれまでのことである。もともと始は、一冊の文書にしばられる気もないのだが、さまざまな謎やら疑惑やらを解く糸口が、そこにあるとすれば、無視するわけにもいかなかった。  自分たちは何者なのか。  どこから来て、どこへ行くのか。  その疑問を、始は、十五年ほどもかかえつづけてきているのだった。 「いろいろとたいへんですね。東海青竜王陛下」  笑いかけた続の端麗な顔に、青白い光が反射した。四人は、いっせいに光の方角を見やった。三〇〇メートルほど先になるだろうか、光りかがやく長大な吊《つ》り橋が見えた。  東京|臨水地区《ウオーターフロント》のシンボルといわれる東京港連絡橋である。全長三五〇〇メートル、二階建ての構造で、上は首都高速道路、下はゴム車輪式のモノレールと一般道路が通っている。水平線や超高層ビル群の直線と対応するかのように、橋梁《きょうりょう》にも主塔にもゆるやかな曲線が取り入れられていて、それに照明がついているものだから、光りかがやくカーブが夜の海上に浮かんで、たいそう美しく見える。  それだけでとめておけばいいのだが、主塔の下からさらに青白いライトを上へむけて照らし、きらきらとかがやく姿を東京湾上に見せつけたのは、いささかやりすぎだった。青白い巨大な蛇がのたくっているように見えるのだ。  だが、これで現在位置が判明した。港区芝浦と江東区有明の中間点に近い。ということは、モーターボートは、むしろ湾を北上したのだろう。  夜の底から爆音がとどろいた。わずかな休息の時間が終わったことを知って、四人は、全身をゆっくり戦闘状態に入れた。       ㈼  暗い夜空を、ヘリの灯火が、竜堂兄弟めがけて接近してくる。一機ではない。湿気と熱気と排気ガスがもつれあった夏の夜空を、編隊を組んで低空飛行してくるのだ。その上方に、例の飛行船があいかわらず浮遊している。 「どうやら今度は雉《きじ》のお出ましか」 「六機もいます。ね、兄さん。奴らは公安警察じゃないにしても、それの親類すじにあたる連中だと思いませんか」  続の意見は当然だった。六機ものヘリが夜間に編隊飛行するのを黙認するほど。警察は甘くない。すすんで許可したにせよ、許可するよう圧力をかけられたにせよ、警察上層部が承知の上であることは明らかだった。 「また墜《お》とされるために来てやがる。さっきはコーラ瓶だったから、今度はビール瓶を投げつけてやろうかな」  終がTシャツにつつまれた肩をそびやかした。世界じゅうのゲリラ組織が、彼の戦闘能力に、よだれを流すことだろう。そのとき、末弟の余が、船べりに手をかけて、海面をながめやった。 「快速艇もやってくるよ。あれは桃太邸の家来だとすると、何だろう」 「犬さ。犬かきやって近づいてくるんだ」  軽蔑したように、終はそう言ったが、どうも犬のほうが速く泳げるようだった。闇の奥に白い光跡を残して、竜堂兄弟が乗っとったモーターボートに肉迫《にくはく》してくる。 「とにかく、資金と人員には不自由しない連中らしいですね」 「にしても、浪費のかぎりだな」  皮肉たっぷりに、始は。敵の失敗を予告した。  ヘリはさらに接近し、回転翼《ローター》の音が暴力的に鼓膜《こまく》をたたきつづけた。舌打ちした終が、甲板の一隅にあった長さ一〇メートルほどのロープをつかむとまるで鞭のように宙に打ち振った。ロープの端で機体を強打されたヘリの一機が、うろたえたように上昇していく。 「何だか怪獣にでもなった気分ですね、兄さん」  竜は、いわゆる怪獣の仲間だろうか。ばかなことを、始は考えた。とにかく、竜堂兄弟と怪獣は、秩序の敵ということで、共通しているのかもしれない。だが、すくなくとも竜堂兄弟の場合、平和に生活する権利を侵害されているから、それに対して反撃しているだけのことだ。  民主主義には「抵抗権」という考えがある。権力者が国民の人権を侵害したとき、それに抵抗する権利である。また、古代中国の思想家|孟子《もうし》は、いまから二〇〇〇年以上も昔に、権力者の不正と暴虐をただすためには、実力行使が必要であると明言している。始が好きな中国の思想家は、孟子と墨子《ぼくし》である。墨子は、これまた紀元前に、「強大国が弱小国を侵略するのは悪で、弱小国がそれに抵抗するのは正義だ」と明言しているのだ。 「おれたちに手を出すほうが悪い。手を出しておいて、抵抗するのはけしからん、というような奴に、こちらが礼儀など守る必要はない」  そう思っている始だが、争えば、無関係の人々を巻きこむこともある。非が敵にあるとは思っても、後味の悪さはどうしようもない。  だが、結局のところ、茶番劇《バーレスク》である。いまのところ、敵の手段もまだちゃち[#「ちゃち」に傍点]だし、竜堂兄弟のほうも能力の一部しか発揮してはいない。これから先、能力を全開して戦うべきときが来るのだろうか。そうなれば事態は、おそらく始の、いや地球上の何びとの処理能力をもこえてしまうだろう。  いったん夜の深淵に姿を消したヘリは、爆音とともに、ふたたび降下してきた。ヘリのなかで、黒い棒のようなものをかまえている人影が見える。たしかめるまでもなく、銃器であろう。 「大リーグでも年間三〇勝」  と豪語する三男坊の終が、モーターボートに置かれていたスパナをとりあげた。長兄がうなずくのを見て、強靱な手首をひらめかせる。スパナは黒い影となって飛んだ。ヘリの風防ガラスを突き破って機内にとびこむ。  ヘリは空中でよろめいた。よろめいた方角に、東京港連絡橋の主塔があった。  回避できなかった。主塔に激突する。夜空の一角に赤い花が咲き、灼熱した花びらが橋上に降りそそいだ。轟音の残響がやまぬうち、炎のかたまりとなったヘリは、主柱から橋の第一層にすべり落ち、路面に激突して砕《くだ》けた。  その炎に、ブレーキをかけそこねた自動車が突っこんだ。ふたたび爆発がおこり、炎の花が咲く。急ブレーキの音が連鎖し、いくつかの球つき衝突がおこる。停止した車から、ドライバーたちが飛びおりた。学生風の若い男性ドライバーが大声をはりあげた。 「どうなってるんだよ、おい! 何だって橋の上にヘリが落っこちてくるんだよ!?」  まことにもっともな質問だが、誰も答える者はいなかった。呆然として、炎と闇の乱舞を見まもっている。ごくわずかに気のきいた者は、反対車線に車を乗りいれて橋上から陸へもどろうとした。さらに勘の鋭い者は、車を見すてて、身体ひとつでも逃がれようと、橋上を走り出している。  お台場の周辺海域で夜間のウィンドサーフィンを楽しんでいた若者たちが、東京港連絡橋の炎に気づいた。顔を見あわせ、興奮した会講をかわしあってから、海面を、橋の方向へむけて走りはじめる。  彼らの幾人かが、波間からただよってくる人声を耳にした。助けを求めている。橋からの火影や、陸からの灯火が交錯するなかで、海面でもがいている男の姿が見えた。 「しょうがないな、誰か助けてやれよ」  そう言いつつ、誰もすすんで助けようとしなかったのは、波間に浮かんでわめきたてるその人物が、若い美人ではなく、猿に似た中年男であったからだろう。結局、猿男は、自力でお台場の石垣にたどりつき、そこでさらに大声でわめきたてたので、駆けつけた公園管理事務所の職員が、見殺しにもできず、しぶしぶ彼を救いあげたのだった。  そういう小喜劇の間にも、東京港連絡橋はオレンジ色の炎を噴きあげている。東京の夏空をおおうスモッグに、その炎が反映して、夜空の一部が琥珀《こはく》色にかがやいた。  こうして、湾岸道路の東部で生じた大騒動は、西部にもおよんだのである。しかも、こちらの事件が、さらにはでなようであった。  仲間を失ったヘリの編隊は、夜と黒煙にはさまれた橋の上空で空中停止《ホバリング》していたが、やがて、たけだけしい猟犬のように、一機が急降下してきた。一秒、いや半秒ごとに、灯火が大きくなり、四人にせまってくる。  そのヘリが、機体の下に何やら太い筒のようなものをかかえこんでいることに、竜堂家の三男坊は気づいた。彼は他の兄弟たちより、兵器とか武器とかに興味があったので、ヘリがかかえこんでいるものは、カンガルーの子供などではなく、対戦車ロケット弾であることに気づいた。それが竜堂兄弟をねらっている。 「嘘だろ……?」  身体の大部分が胆っ玉でできている竜堂終も、単純な台詞《せりふ》のあとで絶句した。まさか、東京湾のどまんなかでロケット弾を発射するどは思わなかったのだ。臨海工業地区の工場やタンク群に引火したら、東京湾全体が炎上するだろう。その覚悟があるのか、それともよほど命中率に自信があるのだろうか。 「やばいぜ、兄貴」  終が兄弟をかえりみる。 「とびこめ!」  続と終にむかって叫ぶと、始は小脇に余を引っかかえ、黒い水面にむかって長身を躍らせた。同時に、続と終も、モーターボートからとびおりた。  世界が白く、ついで緋色にかがやいた。頭上で光と音が大量に発生し、空気を波だたせる。  いったん深くもぐった竜堂兄弟が、水面に顔を出したとき、モーターボートは炎のかたまりとなって、半ば海中に姿を没していた。 「みんな、生きてるか?」 「このていどじゃ、まだまだやられないね」 「ぼくも生きてます。終君より早く死んだら、弔辞《ちょうじ》でどんなひどいことを言われるかわかりませんからね」 「へえ、続兄貴、すこしは自覚があるんだ」 「ありますよ。とんでもない弟を持っているという自覚がね」  いつもなら、舌戦《ぜっせん》はさらにつづくはずなのだが、このとき、水上でいたけだかなエンジン音がひびいたので、次男坊も三男坊も、へらず口をつつしんだ。波をけたてて、快速艇が接近してくる。サーチライトの光芒が、黒い海面をなぎ、四人の視界を白く灼《や》いた。  快速艇が竜堂兄弟のすぐそばに船体を寄せた。船体にさえぎられて、四人の姿は、陸からも橋の上からも、まったく見えなくなっている。  もっとも、見えたところで、見る者はいなかっただろう。東京港連絡橋の上では、規制と混乱がくりひろげられ、動くに動けない車の列に、パトカー、救急車、消防車がたちまじって、サイレンは鳴りひびき、クラクションが咆《ほ》え、警官の指示する声や口論の怒声などで、収拾《しゅうしゅう》がつかないありさまだ。  これは、快速艇の男たちにとって、つごうがよいことだった。彼らは、逃げ場を失ったように見える竜堂兄弟を追いつめ、ついに、仲間たちの失点をとりもどしたと信じた。  船べりに、一〇人ほどの男が並んだ。いずれも壮年で、鍛《きた》えられたたくましい身体を制服につつみ、竜堂兄弟に銃口を並べている。自動小銃をかまえた中央の男が太い声を出した。 「おとなしくしていろ、孺子《こぞう》ども」  着ているものは警官の制服によく似ているが、警官ではない。幾人かの右手に握られた拳銃は、警察の制式銃ではないし、ましてや、日本の警官は自動小銃など持っていないはずである。 「よし、ひとりずつ甲板にあがってこい。ゆっくりと、おとなしくだぞ。すこしでも変なまねをすると、顔のどこかに三つめの目があくぞ」  嗜虐《しぎゃく》の小さな松明《たいまつ》が、男の両眼にちらついていた。自已の優越を確信した、拷問吏《ごうもんり》の目つきだった。 「この快速艇には、TNT火薬が満載《まんさい》してある。やむをえざるときは、船もろともきさまらを抹殺しろという命令だ。死にたくなかったら、いい子にしているんだな」  表情にも声にも、どす[#「どす」に傍点]がきいている。善良な市民なら失神か失禁したであろう。だが、彼の前にいるのは竜堂一家《ドラゴン・ファミリー》なのであった。 「ぼくたちを脅迫したってむだだってことが、まだわからないんですかね、あの連中は」 「しかたないさ。顔ぶれはつぎつぎと変わるが、だからといって一回ごとにレベルがあがるわけじゃなし」  そう言うと、始は、三男坊に低声《こごえ》で命じた。 「終、最初にあがれ。あがったら、やりたいほうだいやっていいぞ」  こころえた、とばかりにうなずいた三男坊が、快速艇の船腹にかかった軽金属製の梯子《はしご》にとりつき、軽やかに上りはじめる。そのとき、指揮者の男は、奇妙な不安をふいに感じたようだ。口もとをひきつらせ、やや努力して、すごみのありそうな声を押し出した。 「きさまら、言っておくが、これは遊びではないぞ!」 「遊びだよ」  相手の真剣さを、一言で否定してのけると、終は、つきつけられた自動小銃の銃身をつかみ、ひょいと持ちあげた。  自動小銃をかまえた男は、そのまま宙に持ちあげられてしまった。仰天した男は、宙で足をばたつかせた。周囲の男たちも、あまりのことに、とっさの対応法を見失ってしまう。あっけにとられて、立ちすくんでしまったのだ。  終は自動小銃を水平に振りまわした。当然ながら、それを持った男も、輪をえがいて振りまわされた。終は、たくましい男の身体それ自体を、武器にしたのだ。すさまじい遠心力でふりまわされる男の両足が、仲間の数人を、甲板上になぎたおした。悲鳴を発して仲間たちは吹っとび、床や操舵《そうだ》室の壁にたたきつけられた。  終が手を離すと、自動小銃をかまえた男は、そのまま遠心力で、海上へと飛んでいった。そのとき、すでに続も、船上へ身を躍らせていた。  気合とともに、特殊警捧が打ちこまれてきた。心技体すべてが水凖をはるかにこえた、必殺の一撃だった。  常人なら、その一撃で鎖骨を砕かれ、抵抗力を完全に奪われ、さらには、半死体となって甲板にころがったであろう。  だが、むろん、続は常人ではなかった。打撃を受けても何ら実害はないのだが、だまってなぐられる趣味は、続にはない。優美な肢体をわずかにひねり、警棒に空を切らせると、つんのめる男の襟首をひっつかんだ。片手でほうり投げる。  男の身体は、ガラス窓を突き破って操舵《そうだ》室に飛びこんだ。室内にいて操船していた男の身体に激突する。骨が折れる不快な音がして、ふたりの男は床に横転した。苦痛の叫びがあがる。  消音器《サイレンサー》をとおして、銃声が鈍いひびきで夜気をたたいた。四人のうちひとりを殺してもやむをえない、というところだったのであろう。銃弾は、まだ海面にいた余をねらったのだが、火線をさえぎった始の頭部に命中した。始は眉ひとつ動かさず、かるく頭を振っただけである。仰天した男が、第二射を放とうとしたとき、続と終が右と左から同時に蹴りを放った。男の身体は奇妙にへしまがって船上からけし飛んだ。続が終に声をかけ、ふたりは船べりを躍りこえて、ふたたび海面にとびこんだ。操舵手を失った快速艇が、猛スピードで暴走しはじめたからである。  コントロール能力を失った快速艇は、波をけたてて疾走し、五〇ノットに近い速度で、橋げたに激突した。火花が、炎がわきあがり、それを黒煙が上方へ追いやる。火は動力部から流出した油に燃えうつり、さらにそれが船底部のTNT火薬に引火した。  第二の爆発が生じて、赤と黄色の炎が天に沖した。轟音が、空気の大波となって夜を引き裂いた。すさまじい勢いで噴きあがった炎と爆風が、橋全体をゆるがす。  橋上にいた警官たちは、その衝撃と震動で、路面になぎ倒された。たたきつけられ、ころがりながら、彼らは見た。コンクリートの路面が割れくだけ、破片が飛散し、亀裂から風と炎が天へむかって噴きあがるのを。  彼らは目と口を最大限にあけて、その光景を見つめた。それからたがいに顔を見あわせ、ばねじかけの人形さながらに飛びあがった。 「逃げろ!」  消防士も救急隊員も、こうなっては自分の生命を守らなくてはならなかった。火と煙と轟音に追われながら、陸へむかって走りだす。 「橋が落ちる……!」  余のことばどおりだった。深夜の東京湾上に、光りかがやく優美な曲線を誇示していた東京港連絡橋は、長大な姿をくねらせるように見えた。主柱がかたむいた。橋梁の中央部がひび割れ、はじけるように左右へ裂ける。裂けた一方は天へむかって持ちあがり、一方は海面へ下むいて、とり残された人と車を、海面になだれ落ちさせた。  モノレールの軌道が、ばらばらに分断されて宙を躍る。海面に滝を逆流させたような飛沫《しぶき》があがる。それが最大限に達し、空と海に反響する落下音がしずまった後——全長三五〇〇メートルの東京港連絡橋は、海上部分が影も形もなくなっていた。 「あーあ、落ちちまった」  海面から出した首をのばして、竜堂終が、しみじみとした口調で評した。 「落ちたんじゃなく。落としたんだろうが。自動詞と他動詞を使いまちがえるんじゃない」  教師精神を、こんな場で発揮《はっき》しておいて、始は、海水にぬれた髪をかきあげた。 「まあ、すんだことはしかたがないが……」  常識家ぶっているくせに、このあたりで、竜堂家の当主らしさが出てしまう。「歩く家風」の兄にむかって、続が、笑いながら提案した。 「では、ひとまず岸に泳ぎつきましょうか。今夜はもう充分に運動しましたよ」  四人は、陸へむかって泳ぎだした。泳ぎながら、終が小首をかしげてみせる。 「あの橋さ、あのていどでこわれるなんて、おかしいぜ。手ぬき工事だったんじゃないかなあ」 [#天野版挿絵 ] 「そういえば橋をつくるとき、建設業界で不正な談合がおこなわれたっていってましたね」 「ひどい話だよな」 「ほんとに、ひどい話です」  彼らの眼前に、東京港の岸壁が近づいていた。だが、それを避けて、彼らは南下した。ときには小細工も必要なので、大騒動の現場から離れたところまで泳ごうというのであった。  ウォーターフロントでの大騒動は、東京都内にも伝わってきた。  東京港横断橋が爆破された音は、港区や品川区の内陸部にまでおよび、日曜の夜を楽しんでいた人々は、思わず歩みをとめた。大地震の到来か、と考えて、ぎょっとした人もいたようである。やがて、繁華街の各処にある電光ニュース掲示板や大型ビジョンが、警察公認の情報を流しはじめ、人々はそれにむらがって息をのんだ。 「東京港連絡橋は現在、炎上しつつあり、湾岸道路は全面的に封鎖されています」  安物のマネキンを思わせる無表情さで、女性アナウンサーがそう報じた。 「これら一連の混乱の原因について、まだ警察当局の公式発表は出ておりませんが。消息筋によりますと、某国破壊工作員と結託した極左過激派のしわざではないか、ともいわれており……」  TVの前にむらがった人々のなかに、六本木でコンパをすませて帰路につく青蘭女子大学の学生たちがいた。 「あの四人兄弟だわ。そうに決まってる。こんなことをやってのけるのは、始さんたち以外にいないもの」  心につぶやいたのは、ショートカットとセミロングの中間の髪型をしたくっきりした目鼻だちの女の子だった。竜堂兄弟の従姉妹《いとこ》にあたる一八歳の鳥羽《とば》茉理《まつり》である。彼女の友人が、腹だたしげな声をあげた。 「いやねえ、過激派って。極左だか何だか知らないけど、はた迷惑もいいかげんにしてほしいわ」 「過激な連中だけど、べつに極左じゃないわよ」  ついそう言ってしまって、茉理はすこしだけあわてた。 「何よ、事情《わけ》知り顔に。どうしてそう言いきれるの、茉理は」 「そ、そうね、単にそう思っただけよ。だって、極左ってさ。やることがもっと洗練されてなくて、貧乏たらしいじゃない。バスに火をつけるとか、警察に花火を投げこむとか」  ほんものの極左が聞いたら腹をたてるようなことを、茉理は口にしてしまったが、友人は「そういわれればそうね」と納得してしまったものだ。  ふう、と、茉理は大きく息を吐き出した。明日は朝から意堂家に行く必要がありそうに思えた。  竜堂家の兄弟たちは、品川区の海岸に「上陸」し、何かとさわがしい夜道を、内陸へむかっていた。すぐ左手の羽田空港で、航空機の動きがあわただしいのは、やはり、湾岸での混乱が影響しているのだろうか。遠く近く、数種類のサイレンが聴こえる。道路には車がつらなっているし、道行く人もどこか不安を隠しきれないようすである。 「やれやれ、今夜ひと晩で、東京都にどれだけ損害をかけたかわからんな」 「明日の朝刊にはまにあわないかな。でも夕刊を読めば、損害額がわかりますよ」 「ふん、初級のジョークだぞ、そいつは」  いささか不機嫌そうに始が応じると、終が元気よく口をはさんだ。 「こまかい数字はわからないけどさ、ひと晩でこれだけ東京に被害を与えたやつって、他にいないんじゃないか」 「民間人ではそうでしょうね」  続が正確を期した。始は口のなかで何か言ったが、誰の耳にも声はとどかなかった。とどいたのは、つぎの台詞《せりふ》である。 「しかしまあ、茉理《まつり》ちゃんがいっしょでなくて、せめてものことだった。彼女は、おれたちとちがって、普通の人間だからな」 「普通ですかねえ」  いささか疑わしそうに続はつぶやいた。他の兄弟と同じく、全身ずぶぬれでひどいかっこうなのだが、それでも白皙《はくせき》の美貌に超然たる表情をたたえて、ぬれた前髪を指先ではねあげる。 「まあ今夜のところは、はやく帰って、シャワーをあびて寝《やす》みましょう。終君と余君に夜ふかしの癖《くせ》がついてもこまりますものね」  高輪のホテルでは、東京湾岸の喜劇を演出した権力亡者たちが、酢を飲んだような表晴を並べていた。  東京湾岸の夜景が窓のむこうにひろがり、その一角が赤々と燃えあがっている。世紀末東京の一大プロジェクトであった東京港連絡橋の最後だった。 「一日に二度も失敗し、死傷者が五○人以上か。おまけにこのひと晩で、何百億の損害を出したか知れん。醜態のきわみだ」 「後始末がおおごとだな。国から、東京都から、ジャーナリズムから、納得させなきゃならん」 「国民の関心をそらせるために、某国のスパイを検挙するなり、野党の代議士を汚職で逮捕するなり、いままでとっておいた切札を吐きださにゃならん。さぞ警察がにがりきることだろう。借りを返すときがたいへんだぞ」 「そう悲観することもあるまい、藤木君。失敗は成功の母とやらいうではないか。努力と誠意が必ず報われてこそ、教育というものの存在価値もあるということさ」  口々に好きほうだいのことを言いたてる「同志」たちに、藤木は、にがにがしげで陰険な横目つかいをむけていた。一同が、ひととおり放言をすませてしまうと、藤木は、毒のこもった声をロから押し出した。 「四人姉妹《フォー・シスターズ》が動き出したという情報もある。時を浪費してはいられん。多少のむりは、すでに承知の上だ。彼らの先をこしてこそ、いずれ交渉にのぞむ足場もつくれよう」 「四人姉妹か」  高沼がソファーで脚を組みかえた。それは。アメリカ合衆国の政界・財界・軍部を支配し、世界の富の過半を制するといわれる四つの超巨大財閥のことであった。 「竜堂、だったか、こちらの一家は四人兄弟だという。四対四で、いい勝負になりそうだな」 「高沼さん、へたな冗談はそのていどにしておいていただこう。冗談を言ったところで、現状が改善されるわけではない。いまさら高沼さんに教えてあげねばならないのかな。四人姉妹が、われわれなどよりよほど、いや、比較にならないほど強大であるということを」 「わざわざ初歩的なことを教えてくれんでもいい。つまり、|アメリカ政府《ホワイトハウス》は四人姉妹の、政治の分野における代理人にすぎんということだ」  高沼の言葉に、藤木はうなずいてみせた。 「いまさら言うのも妙なものだが、船津老だからこそ、四人姉妹の圧力に抗して、どうにかこの国の立場を守ることもできたのだ」 「そう、あの老人を、四人姉妹もはばかっていた。というより、気味悪がっていた」  その奇怪な力が、どうやら竜堂兄弟の存在と、何らかの形でつながっている。そうである以上、今夜、失敗したからといって、竜堂兄弟に対する不当な干渉を中止するわけにはいかなかった。いや、それどころか! 失敗したこと自体が、竜堂兄弟の異様な力を証明しているではないか。  あきらめられるものではなかった。 [#改ページ] 第四章 オールスター登場?       ㈵  朝、めざめると、食欲中枢を刺激する、たいそういい匂いがした。竜堂始はベッドの上に半身を起こした。夏の朝は早くも暑さを感じさせはじめている。時計は八時四〇分。  ドアをノックする音がして、身だしなみをととのえた次男坊の続が顔を出した。 「兄さん、起きてます?」 「いま起きたところだ」  寝ぐせだらけの頭で長男は答え、夏パジャマにつつまれた長身を床の上に立たせた。小さなあくびをもらしながら、カーテンと窓をあけ、夏の風を部屋いっぱいにいれる。どうやら今日は快晴らしい。 「茉理ちゃんが来てくれたらしいな。おかげでまともな朝食にありつけそうだ」 「喜んでばかりいられないと思いますよ、兄さん」 「うん……?」 「ひょっとして、ぼくたちの昨夜の野外活動を叱りにきたのかもしれません」  年長の男性とも思えないことを続は口にした。始のほうも、いささか剣呑《けんのん》そうな表情になったが、そのとき階段を三段ずつ駆けあがって、元気のいい三男坊がどなった。 「兄貴、さっさと降りてこいよ。三分して来なかったら、おれと余で食べちまうぜ」  肉だんごの牛乳スープ、輪切のフランスバン、エッグサラダ、いちごのヨーグルトかけといった、りっぱな朝食が、テーブルに並ぶありさまは、竜堂兄弟の感動を呼んだ。「まともなごはんだよう、お兄ちゃん」の世界である。  竜堂家の「健康的で文明的な生活を維持する作戦」司令官は、ひよこマークのエプロンをぬぎながら笑いかけた。 「たくさん食べてね。昨夜《ゆうべ》のお遊びで、さぞお腹がへってるでしょうし、腕によりをかけたから」  やっぱり、と言いたげに、始と続は顔を見あわせた。茉理の笑顔は、さわやかであると同時に、充分に意味ありげである。 「話は食事がすんでからね。あんまり消化によくない話は、いましたくないから」  始は内心で首をすくめながら、熱いスープをすすった。夏は冷たい物で胃を冷やすことが多いので、あえて茉理は、熱い料理にしたのである。食べるにしたがって、汗が噴きでてくるが、それが睡魔《すいま》や疲労の残りかすを体外に流し出し、爽快《そうかい》な気分にしてくれる。  朝食のあとかたづけがすむと、終と余は。殊勝《しゅしょう》にも勉強のために部屋に引きあげた。年長の三人は、食堂から居間に移った。ソファに腰をおろして、莱理が従兄たちを見つめる。 「でね、始さん、続さん、昨夜のウォーターフロントの件だけど……」 「ああ、あれは某国の破壊工作員とつるんだ極左過激派のしわざじゃなかったのかい。TVじゃそう言ってるようだけど」 「政府や警察の公式発表を、事実の確認も批判もせずにたれ流すだけの、堕落しきったジャーナリズムと、いっしょにしないで!」  ひと息にそう言ってのけたのは、練習した結果としか思えない。始は、たじたじとなって、意見を求めるように続を見やったが、不敵な次男坊にも何の策もないようである。 「悪かった、茉理ちゃん」 「どうしてあやまるの? 始さんたちが先に手を出したなんて、わたし思ってないわ。始さんは、なぐられた瞬間になぐりかえす人だけど、相手より早くなぐりつける人じゃないもの」  そうかなあ、と、続は内心で疑問に思ったが、口には出さなかった。 「としても、ちょっとやりすぎね。どれぐらいの損害が出たか、知ってるでしょ。冗談じゃすまないわよ」 「でも、わが家だっていい損害だったんだぜ。八年も乗っていたとはいえ、車を一台、湾岸道路に置きっぱなしだ。まあ炎上してしまってるだろうけど、あれは惜しいことをした。もう二、三年は乗れたのに……」  ことさら事態を卑小化しようと、始は、やや悪あがきをこころみた。 「そうね、残念だわ。奥日光か白馬あたりにドライブにつれていってもらおうと思ってたのにね」  受けて、流して、相手に返すあたりの呼吸が、尋常《じんじょう》ではない。 「でもやっぱり、始さんたちには自重してほしいの。小物相手に、ちょっと周囲への影響が大きすぎたでしょ。いざ大物を相手にしたとき、どうなることやら、心配になってしまう」  茉理の目が、夏の朝そのもののように光った。彼女なりに、すこしためらったようであるが、よい機会だと思ったらしい。テーブルに軽く身を乗りだした。 「始さんたちには、大小さまざまに秘密があるんだから、ほんとに注意してよ、従姉妹のわたしだって、ふしぎに思ってることがいくらだってあるんだから」 「たとえば、どんなこと?」 「たとえばね、始さんたち四人とも、誕生日が一月一七日よね。これって、おもしろい偶然だと思ってたけど、考えてみれば、できすぎた話だわ」  茉理のいうとおりである。昔から、始も奇妙には思っていた。祖父あたりの作為があるのではないか、という気もしていた。ただ、そんな作為をほどこす理由がわからなかった。 「一一七とは、六の自乗数である三六と、九の自乗数である八一とを合した数でな。中国の数秘術の極致なのだ」  そう船津老人が語った。それでわかったのだ。一[#「一」に傍点]月一七[#「一七」に傍点]日という日づけの持つ意味が。もっとも、それなら一一月七日でもいいはずだが、そこは祖父の裁量《さいりょう》ということだったのであろうか。いずれにしても、その日づけに、祖父は象徴的な意味をこめたとしか恐えない。  こうなると、始たち四兄弟の命名《ネーミング》さえ、何らかの意味を持つように思われる。長男の始は、それほど奇異な名ではない。だが、続、終となると、男子ばかりがつぎつぎと生まれることを、まるで予期していたようではないか。すべては祖父かそれ以外の何者かの計画どおりであり、始たちの今日《こんにち》も予定調和のうちにあるということだろうか。 「もっともね、わたしの同級生に昆虫学者の娘で、揚羽《あげは》って子がいたけど」 「アゲハチョウか、なるほどね」 「双生児《ふたご》でね、弟が門司郎《もんしろう》っていうの」 「……それはそれは」 「わたしの名前だって、あんまり普通とはいえないものね。姓が後野《あとの》だったりしたら、いい笑話だわ」  三人は顔を見あわせて笑った。まったく、子供に名前をつけるのは、親の大いなる特権である。始たちは、一郎、二郎、三郎、四郎などと命名されなかっただけ、ましなのかもしれない。  二、三の疑問は提出されたが、それに対する解答は、仮説の域を出るものではなかった。ふと、始が話題を転じた。 「ところで叔父さんと叔母さんは元気かい?」 「母はいつもどおりよ。あれほど喜怒《きど》哀楽《あいらく》を表面に出さない人もめずらしいわね。とにかく、竜堂家の血をひく人間のなかでは、うちの母が一番、平静にして沈着なんでしょうね」 「叔父さんは? まあ万事うまくいってて、元気がないはずもないな」 「それがそうでもないのよ。たしかに学院内では独裁者になりおおせたけどね、学外ではね」  けむたく思う甥の竜堂始を学院から追い出し、鳥羽靖一郎はこわい者なしになった。理事会も彼のいうなりになった。死んだ古田代議士から押しつけられた新理事の人事も、なかったことにしてしまった。富士山麓ではひどい目にあったが、その試練[#「試練」に傍点]も無傷で耐えぬき、わが世の春を謳歌《おうか》している——はずであった。  ところが、学外に目をむけると、学部増設をめぐって文部省の役人たちとの折衝《せっしょう》がうまくいかなかったり、キャンパス移転の跡地をめぐって不動産会社との交渉が難航したり、何やかやと問題続出して、頭をかかえているらしい。 「なるほど、それなりにたいへんなわけだ。独裁者も楽じゃない」 「ま、克服するでしょうけどね。父は勤勉な努力家だから。あんまり順風《じゅんぷう》満帆《まんぱん》でいるより、すこしは苦労があったほうが、生きてる張りあいがあるのよ」  冷静に、娘は父親について論評した。 「父が何かよからぬことをしようとしたら、それはわたしが抑えるわ。だから始さんは、小物なんかに気をとられず、自分ひとりにしかできないことにそなえて、英気をやしなっていてちょうだい」  その日は、茉理は夜までいて、竜堂家の家事をきれいに処理してくれた。TVも新聞も、ウォーターフロントの事件を過激派のしわざと決めつけていた。さしあたって、小さな嵐のあとには、小さな平穏がおとずれたように見えた。こうして、七月二三日は無事に暮れていったのである。       ㈼  翌目、二四日。朝から舞いこんだ固定資産税の納入書のおかげで、竜堂家の若い当主は機嫌が悪くなっていた。 「冗談じゃないぜ。何でこんなに高い固定資産税を支払わなきゃならないんだ。この土地から一円の収益だってあげているわけじゃないのにな」  一九八○年代の後半、東京を中心にして日本の土地価格は狂騰《きょうとう》した。「日本の土地全部を売れば、アメリカ、カナダ、オーストラリア三国を買いしめることができる」と言われるほどの異常さだった。悪質な不動産業者を、背後から、さらに悪質な金融機関があやつり、それを政府が平然として放置し、社会問題が続出した。日本のように狭い国では、土地に対する投機を禁じるべきであるのに、政府はまったく何もしなかった。それどころか、土地問題をあつかう国土庁の長官が、不動産業者や建設業者から政治献金を受けとり、しかも大半のジャーナリズムはそれを批判しようともしないというありさまだった。 「水滸伝」の時代に似ているな、と、始は思うことがある。西暦一一二〇年代の中国、宋《そう》の時代。「風流天子」こと徽宗《きそう》皇帝の御世に、中国の経済と文化は極度に発達した。皇帝はすぐれた芸術家で、とくに絵画では歴史に残る名人だった。個人としても善良だったが、一国の皇帝としては無為《むい》無能だった。社会は退廃し、政治は腐敗した。悪辣な高官たちに抵抗する者たちは、梁山泊《りょうざんぱく》の地に集まって反旗をひるがえした。やがて北方に興《おこ》った金《きん》帝国は、南下して黄河をわたり、宋を滅ぼした。徽宗は捕虜となって北方へつれ去られ、寒風吹きすさぶ荒野でのたれ死した。  破局は栄華のきわみに、突然おそいかかる。日本もそうならないといえるだろうか。世界じゅうの富をかき集め、それを国際社会に還元しようとはしない。有色人種でありながら、人種差別を制度化したファシズム国家南アフリカと深い関係をむすび、名誉白人といわれて喜んでいる。戦争放棄をうたった憲法を持ちながら、軍事予算は、アメリカとソビエトにつぐ世界第三位である。どういうわけか、「人種差別|撤廃《てっぱい》条約」にも、「大量虐殺《ジェノサイド》禁止条約」にも「生物化学兵器禁止条約」にも知らぬ顔である。バランス感覚を失して、大金をかかえたまま一輪車にまたがり、他の人々を突きたおして走りまわっている。いずれ必ず転倒するだろうし、そうなったとき、誰も助けてはくれないだろう。  だが、いずれにしても税金はきちんと納めなくてはいけない。舌うちしつつ。納入の時期や方法について、居間で考えていると、末っ子の余が、何やらあらたまったようすで長兄に話しかけてきた。 「始兄さん、話があるんだけど」 「何だい、急に」 「ぼくがときどき見る夢のこと」 「…………」 「あれ、ただの夢じゃないよね、きっと。何ていうのかな、意識のはたらきの結果でしょ。ぼくがもっときちんとおぼえていたらいいんだけど……」 「余が気にすることはないよ。夢のすべてに意味があると思いこむのも危険だ。余は、おぼえていることだけ話してくれたらいいんだよ。あとは兄さんにまかせろ」  末っ子に甘いところを、始は見せた。 「で、昨夜はどんな夢を見たんだ? 話してごらん」  長兄に対する敬愛と信頼を、余はうなずきで示《しめ》した。 「兄さんたちやぼくが。四人そろって、中国風の衣裳を着てるんだ。いつか京劇で見たような、皇帝だか王さまだかの、りっぱな服を着て、宮殿のなかにいて、その宮殿がね、やっぱり……」  表現力の不足が、余は、もどかしそうであった。  始は助け舟を出した。 「中国風の宮殿なのかい?」 「そう、それでね、夜空に月がないんだ」 「月が出てないということかい」 「ちがうんだ。月じゃなくてね、空に地球があるんだ。だから、きっと月に宮殿があってね、そこで……」  そこで四人兄弟は何か話しあっているのだが、内容まではおぼえていない。ただ、四人が輪をつくった中心に、大きなかがやく珠《たま》があった。さらに、宮殿のなかに楕円《だえん》型の大きな鏡があり、そこから急に光と音が発して———余は目がさめたのだという。  始が余の話を聞いているうちに、昼になって、終が区営プールからもどってきた。かんたんな昼食がすんで、居間で四人が顔をそろえると、続が終に話しかけた。 「今日はたしか水道橋のドーム球場で、プロ野球のオールスター・ゲームがあったでしょう。余君とふたりでいってらっしゃい」 「いいねえ、でも切符は?」  続の手が入場券を二枚差しだしたので、終は口笛を吹き、余は手をたたいた。入場券を押しいただいた三男坊は、何気なさそうに次兄の顔を見なおした。 「続兄貴って、ほんとに理想に近い兄上だなあ。これで切符に誰かの肖像画をつけてくれると、理想そのものになるんだけど」 「そうですか。ぼくはときどき、極端に、おだてに弱くなるんですよ。これだけあれば、たりるでしょう。あまった分はちゃんと返してください」 「謝々!」  一万円札を手にした終は、余をひっぱって居間を飛びだしていった。兄の気が変わらないうちに、と思ったのだ。 「兄さん、書庫の本は全部でどれくらいでしたっけ」 「そうだな。二万冊はあるんじゃないか。かなり貴重な漢籍《かんせき》もあるはずだし、ほんとうは共和学院のなかに竜堂文庫とかいうやつでもつくってほしいんだが……」  そこでふと気づいたように、 「ところで、オールスター戦の切符なんか、よく手にはいったな」 「新聞屋がサービスに持ってきたんですよ。二枚だけ。ちょうどよかったでしょう」 「おい、国民新聞をとるのはいやだぞ。発行部数世界一だなんていってるが、政府べったりの御用新聞なんだからな、あれは」 「ご心配なく、東日本新聞ですよ。あそこはちょっと読書|欄《らん》が弱いけど、夏場だけならいいでしょ」  この日から、始は、祖父の蔵書を本格的に調査するつもりだった。咋日の茉理の意見に、尊重すべきものを感じたこともあるし、おりから余の夢見のこともある。 「終君たちが出かけたら、さっそく地下の書庫へ行きましょう」 「いいよ、おれひとりでやる」  始は手を振った。 「デートでもしてこいよ、せっかくの夏休みに、古書と格闘することはないって」 「デートする相手なんていませんよ」 「何いってる、天下の色男が。バレンタインデーには、天井までとどくチョコの山だろうが」 「あれは年中行事ですからね。べつに本気でぼくのことを好いてくれてるわけじゃないです。それに、ぼくがいないと、兄さん、食事の二、三回ぬきかねませんからね。茉理ちゃんに叱られてしまいますよ」  というわけで、竜堂家の長男坊と次男坊は、地下の書庫で探検をはじめたのだった。始は、二三歳という年齢にしては、人がおどろくほど大量の本を読んでいるが、亡くなった祖父の学殖《がくしょく》と教養には、とうていおよばない。タ方近くまでかかって、五〇〇冊ほどを検証しただけである。まかりまちがうと、秋までかかりそうだ。書庫の床は、コンクリートの上に吸湿板が張られ、その上に杉板がしかれている。その上に大量の本が置き並べられていった。  一時キッチンにあがってお茶のしたくをしていた続が、足下で地ひびきの音を聴いたのは、六時前のことだった。何が生じたのかは、すぐにわかった。 「兄さん、大丈夫ですか?」  地下書庫への階段を駆けおりながら、続が呼びかけた。開かれたままの扉から、本の山が流れ出している。「史記」をはじめとする二十四史の清代の版本がある。「ローマ帝国衰亡史」、「元曲《げんきょく》選」、「全相五代史平話」、その他、和本、漢籍、洋書の山だ。 「まったく、本に押しつぶされて死ぬなんて、祖父《じい》さんなら本望だっただろうが、おれとしては願いさげだぜ」  下半身を本の山に埋めたまま、竜営家の長男は両手をひろげてみせた。立ちあがるとき、一冊の本を踏みつけかけ、それがペルシア語の「王書《シャーナーメ》」一八八○年テヘラン版であることに気づいて、あわててひろいあげる。その下にあるのは、老舎《ラオシェ》の自筆サインがはいった「駱駝祥子《らくだのシャンツ》」の初版本である。これもあわててひろいあげる。さらにその下には……。 「きりがありませんよ、兄さん、もう夕方近いし、ひと息いれましょう」 「しかしだな、本がこのありさまでは」 「大丈夫ですよ。これまで一〇〇年くらい保《も》ってきたんだから、あと一〇〇年くらい保つでしょう。 ゆっくりやりましょうよ」  続の意見をすべて是《ぜ》としたわけではないが、本の海のなかに本をかかえて立っていても、たしかに埒《らち》があかない。始はひとつ肩をすくめると、足もとの本をかきわけて、一階への階段を上った。  居間で続がお茶の用意をして兄を待っていた。続は兄弟のなかでは一番まめ[#「まめ」に傍点]なのだが、せいぜい麦茶に水ようかんというところである。夜の食事は、近くのレストランから出前をとることになるだろう。茉理だって毎日来てくれるというわけにはいかないのだ。 「先は長そうです。息ぎれしないでくださいね」 「ま、初日から何か出てくると思うのは、虫がよすぎるってもんだ。お前さんのいうとおり、ゆっくりやることにするよ」  何か他愛《たあい》のない話でもしたいのだが、つい話は一定の方向へむかってしまう。 「敖《ごう》家の四兄弟というのは、竜王四兄弟、つまり四海竜王のことですね。長男は東海青竜王《とうかいせいりゅうおう》、名を広。次男は南海紅竜王《なんかいこうりゅうおう》、名を紹《しょう》。三男は西海白竜王《せいかいはくりゅうおう》、名を閏《じゅん》。四男は北海黒竜王《ほっかいこくりゅうおう》、名を炎《えん》……」  続はしなやかな指をつぎつぎと曲げた。 「あの老人は、くたばる前に、ぼくのことを南海紅竜王と呼びましたよ。そう言われたときは気色わるくて、ぞっとしましたけど、きれいな女の子にそう呼ばれたら、けっこういい気分でしょうね」 「雌《めす》の竜にか?」  と、長兄は、皮肉っぼく応じた。かなわないな。兄さんには、と次男坊は笑って、そのあとまじめな表情になり、両足をソファーの上にあげて、ひざをかかえた。 「富士山麓で、余君は竜に変身しました。ぼくもいざとなったらああいう姿になるんだろうか、と思ったら、何かこう、恐怖と同時に、えもいわれぬ快感をおぼえましたよ。ぼくたちのこの身体が……」  続は、白い優美な手を持ちあげて、灯にすかすようにした。 「単なる仮の姿で、真の姿がああだとすると、ぼくらはどうして現在のような人体の殻《から》のなかに閉じこめられているんでしょう」 「おれたちは幼虫なのかもしれないな。つまり芋虫《いもむし》さ、蝶になる前の……」  言葉を切って、始は、左手首の腕時計に視線を投げた。 「終と余が帰ってくるのは、何時くらいになるかな」 「そうですね、試合が終わるのは九時半くらいでしょう。それから球場を出て電車を乗りついで……一〇時半くらいには帰ってくるんじゃありませんか」  始はうなずいた。       ㈽  水道橋の東京中央屋内野球場は、通称ビッグボウルと呼ばれている。グラウンドの広さは、左右両翼が一〇〇メートル、センターが一二五メートル。天井高が六五メートル。収容人員は五万五〇〇〇人で、小都市の全人口がおさまってしまう。日本で最初の屋根つき球場であり、各種のショーやコンサートにも使用されている。内外の微妙な気圧差によって、特殊繊維製の巨大な屋根がささえられているのだ。サラダボウルをひっくりかえしたような白い姿は、水道橋一帯の名物である。  七月二四日、火曜日。この年、パシフィック、セントラル両リーグのオールスター戦第三試合が、このビッグボウルでおこなわれた。第一試合はセ・リーグ、第二試合はパ・リーグがそれぞれ勝って、今年の結着を第三試合に持ちこしたのだ。試合開始は午後六時三〇分からだが、四時には開場され、五時すぎには満員となった。竜堂家の三男坊と末っ子も、五時には入場している。五時四五分から、試合に先だってアトラクションがあるのだ。  三塁側内野席の前列である。パ・リーグファンの竜堂兄弟としては、まず最高の席といえるだろう。終と余は、出場選手の写真いりリスト、コーラの特大紙コップ、ホットドッグ、ポップコーン、メガホンなどを両腕にかかえて。ご満悦だった。 「兄さんたちも来ればよかったのにね」 「しかたないさ、お年よりたちは何か調べ物があるっていうから、やらせとこうぜ」  つい声が大きくなるのは、ドーム球場の内部では、音や声が反響してたいへんな騒がしさになり、ふつうの会話ができないからだ。  アメリカのショーのまねをしただけの、無意味なアトラクションが終わり、ホームラン競争や始球式も終わって、いよいよ試合が始まった。  パ・リーグの先発投手は乱調で、一回裏にセ・リーグの連打をくらい、二点を先取されてしまった。それに対し、パ・リーグは三回表に連打と四球で一死満塁のチャンスをつくった。竜堂兄弟は、椅子から半分立ちあがった。 「よおし、いけいけ、一気に逆転だ! 表面的な人気にあぐらをかいてるセ・リーグなんか、たたきつぶせ!」 「最低でも二点、二点!」  終が西海白竜王、余が北海黒竜王であるとしても、眼前の試合を左右するような能力はない。ふたりの声援もむなしく。パ・リーグの三番打者はサード正面にゴロを打って、ダブルプレイをくらってしまった。 「こらあ、誰もいないところに打たんか! へたくそ!」  終がじだんだを踏み、余がため息をついて天をあおぐ。三回表を終わって、パ・リーグは二対Oでリードされたままである。  スタンドの狂騒は、厚いガラスでしきられたVIP席にはとどかなかった。ビクトリア朝《ちょう》様式《ようしき》の調度をそろえた、二〇畳大のVIP席では、五、六人の身なりのよい男たちが、ソファーに腰をおろしていた。 「高沼にしろ藤木にしろ、分をわきまえぬ道化者どもが、すべて見すかされているとも知らず、針の山でへたなダンスを踊っておるというわけだな」  その声は、イタリア製のチョコレート色のスーツに身をかためた五〇歳前後の男の口から発せられた。彫りの深い端整な顔だちの紳士だが、両眼からもれる光はけわしく、酷薄であった。  男の名は、蜂谷《はちや》秋雄《あきお》という。五年前まで。警察庁公安課長をつとめ、階級は警視長であった。その年、国会に議席を持つ左翼政党の幹部の家に、公安警察の手によって盗聴器がしかけられているのが発見された。公安警察の犯罪は、検察庁によって立証されたが、実行犯の公安警官たちは不起訴になった。理由がたいへんなものであった。 「犯罪は組織ぐるみのものであるから、個人の罪を問うことはできない」  というのである。こうして、その年から、公安警察は、犯罪をおかしながら法律によって罰せられることのない、日本で唯一の組織となった。もはやこの組織は、日本国内において犯罪を捜査し検挙する資格などないはずである。  だが、法的に罰せられなくとも、いちおう日本は先進的民主国家と自称しており、その体面はつくろわなくてはならなかった。盗聴を指示した責任者として、ときの蜂谷警視長は辞任せざるをえなかった。  彼の辞任は、公安警察の組織そのものを救った。  盗聴事件の直後、某国のスパイ網が摘発され、マスコミは大々的にそれを報じた。それまで公安警察に対して批判をあびせていたのが、たちまち公安警察の宣伝係に豹変《ひょうへん》して、「日本をねらう赤いスパイ網」などという特集記事を組み、公安筋の情報をたれ流すありさまだった。こうして、盗聴事件があらかた忘れ去られると、蜂谷は、あたらしい身分をえた。東京産業大学政治学科教授・兼・国家安全問題研究所所長というのが、彼の現在の身分である。  むろん、蜂谷は、そのような地位に満足してはいなかった。彼は彼の才能と力量にふさわしい地位につき、権力をふるい、日本の国家と国民を指導するつもりだった。  ただ、蜂谷は、日本地下帝国の法王たる船津忠巌老人とは、深いきずなをむすぶことができなかった。当時、船津老人の腹心といわれた高林が、自分の座をおびやかす者として、蜂谷を忌避《きひ》したからである。その高林も、この年の初夏に急死した。彼を重用していた船津老人も、きわめて奇怪な死にかたをした。彼らふたりの死を、悲しむべき理由など、蜂谷にはなかった。 「蜂谷君は、たとえがうまいな。たしかに藤木や高沼といった愚か者どもは、針の山から血の池へ転落するのが、文字どおり落ちじゃろうて」  食用|蛙《がえる》のような顔つきと身体つきをした、七〇代の老人が、つきでた腹をゆすって笑った。この老人の名は田母沢《たもざわ》篤《あつし》という。  船津忠巌の下にあって、旧満州(中国東北地方)で医化学特殊部隊を指揮し、細菌兵器や毒ガスの研究をおこなっていた男である。三〇〇〇人の中国人男女を、生体実験によって虐殺した責任者のひとりだ。日本の敗戦直前に、中国人から強奪した金塊や宝石、それに部隊のものだった麻薬などをかかえて、旧満州から日本に逃亡した。当然、戦争犯罪に問われるはずだったが、アメリカ軍に綱菌兵器や毒ガスの研究資料をゆずりわたして、起訴をまぬがれた。戦後は、医化学研究所、病院、製薬会社などを経営し、「田母沢コンツェルン」の大ボスとして、医学界や製薬業界に君臨しているのだった。 「藤木や高沼が血の池に落ちるのは、奴らの勝手だが、悪あがきして、われわれを道づれにされてはたまらんな」  ヤモリのような顔つきに、両耳がとがった六〇代の男が、こわれた笛を鳴らすような声をたてた。オリエント石油会長の小森《こもり》春光《はるみつ》である。  オリエント石油は日本でも屈指の大企業であり、とくに石油元売業者としては業界最大である。年間の純利益だけで三〇〇〇億円をこすのだ。なにしろ日本で最初に、アラブ諸国との間に独自のルートをつくり、石油を直接輸入した会社である。そのときの苦労語は、映画やビジネス・コミックにもなってよく知られている。  ところが、この大企業は、三○年にわたって、国家に一円の法人税も納めていないのだった。税金避難地《タックス・ヘイブン》と称される法人税ゼロの土地、たとえばパナマやバーミューダ諸島などに子会社をつくって利益をそこに流し、あらゆる法律や企業優遇制度を悪用して、とにかく税金をおさめない。かわりに政府与党に政治資金をばらまいて、勢力を根づかせていた。  そして、そのオーナー会長である小森は、つぎのように発言するのだ。 「いまの日本人は礼儀も常識もわきまえず、権利ばかり主張して義務をはたそうとしない。戦後民主主義が悪いのだ。若い世代の根性をたたきなおし、りっぱな日本人にするため、修身教育と徴兵《ちょうへい》制を復活させねばならん。国を愛し、社会に奉仕し、企業を発展させるほんものの日本人であらねばならん」  自分が納税の義務をはたしていないことなど。棚にあげている。また、彼は、徴兵制の復活を叫びながら、自分の息子たちを、ひとりとして自衛隊に入れてはいない。このような人物を評するために、「恥知らず」という日本語があるのだが、小森は、むろん自分が模範的な愛国者であると信じていた。彼にかぎらず、「日本を愛せよ、国を守れ」とわめきたてる政治家、財界人。文化人のなかで、自分の息子を平隊員として自衛隊に入れている者は、ひとりもいない。この事実は認識されておくべきだろう。 「ま、ま、われわれは彼らの失敗を他山《たざん》の石として、心すべきでしょうな」  そう言ったのは、中熊《なかぐま》章一《しょういち》という、日本で最大の労働組合である「全日本労働者運盟」、略称「全連」の事務局長である。労働貴族という名詞があるが、この男はまったくそのとおりの存在であった。つとめている会社が田園調布に持っている重役用の社宅は二〇〇坪の土地に建つ7LDKだが、そこを月一万円の家賃で借り、組合幹部専用のベンツで出勤し、毎日、財界人や評論家とゴルフや賭けマージャンをする優雅な生活を送っている。「企業あっての組合、組合あっての労働者」と広言し、将来、政界に転進して労働大臣の座をねらっている。相撲《すもう》の力士のように、色白で肥満した中年男だ。  このような男たちが、ビッグボウルのVIP室に陣どって、パ・セ両リーグの対抗試合を、ガラスごしに見おろしているのだった。       ㈿  どのような場所にあっても、格下にしか見られない人物がいるものだ。奈良原がそうだった。一昨日の夜、高輪のホテルのプレジデントルームで権力亡者たちに平身低頭していた奈良原は。今日はビッグボウルのVIP室で、べつの顔ぶれの権力亡者たちにへいこら[#「へいこら」に傍点]しているのだ。観客がちがえど、舞台俳優の演技は同じ、というわけである。 「五〇人も人数を使うそうだな」  蜂谷の声に、奈良原はうやうやしく答えた。 「はい、五〇人使って効果がなければ、つぎは一〇〇人使います。それでもだめなら、つぎは二〇〇人使います。かならず、先生がたのご希望をかなえてごらんにいれます」 「手段は選ばないと?」 「はあ、もはや手段を選んではおられません」  奈良原が、上べをとりつくろいつつ答えると、小森があざ笑った。 「だが、いかにも大げさじゃないか。たかだか高校生と中学生の二人組を相手に、それほどの人数を動員するとは」 「おことばではございますが、その子供が、おとといには、フェアリーランドから東京港連絡橋にかけて、ウォーターフロント全域を、台風のように破壊しつくしたのです」 「ふん、それでさっそく建設業界のハイエナどもが、うごめきはじめよったわ。わしも建設会社をひとつ持っておけばよかった」  田母沢が、卑《いや》しい笑いかたをした。それに応じたのは中熊である。 「それよりも、田母沢先生には、もっと学問的な楽しみがおありでしょうが」 「そうじゃな。もし奴らの異常なカとやらが事実であるなら、ぜひその身体を解剖して、科学と医学の進歩に役だてたいものだ」  田母沢の両眼が脂《あぶら》っぽく光った。彼は二〇代の軍医中尉のとき、旧満州にあって、自ら二〇人以上の男女を生体解剖しており、酒より、女より、生きた人間を切り裂く快楽を好んでいた。  わずかに苦笑した小森が、奈良原に、去るように合図した。一礼して退出する男の背に視線を投げて、蜂谷にささやきかける。 「奈良原という男は使えるかな、蜂谷君」 「犬の皮をかぶった蝙蝠《こうもり》です。信頼には値しません。まあ役に立っているうちは、それなりの餌を投げ与えてやりましょうか」  人間を飼犬としか見ていない傲慢さで、蜂谷は薄い唇をはためかせた。 「ふふふ、生きておる人間を解剖するほど楽しいことは。またとないでな。五〇年前、わしがはじめてメスを入れた中国人の農夫は、腹を裂かれ、内臓を空気にさらしたまま、一六時間も生きておったわ」  頬をひくつかせて陶酔の笑みを浮かべた田母沢は、オペラグラスを取りあげ、三塁側内野席の一角に視線をすえて、ぺちゃぺちゃと褐紅色《ブラウンピンク》の舌を鳴らした。 「おう、おう、若くていきのよさそうな二人組だ。あのみずみずしい肌にメスを入れたとき、さぞや弾力ある手ごたえがすることだろうて……」 [#改ページ] 第五章 ビッグボウル崩壊       ㈵  七月二四日。水道橋ビッグボウル最後の日は、観衆の熱狂と絶叫のうちに、終局へと向かっている。むろん、自分たちがビッグボウルの崩壊に立ちあうことになろうとは、誰も予想していない。 「点がはいらないね、終兄さん」 「ランナーは出てるんだけどなあ。一番よくないパターンだぜ。押しまくって押しまくって、気がついたら負けてるってやつ」  いっぱしの野球解説者ぶって、竜堂終は、ため息をついた。 「どうしてあんなピッチャーが打てないんだろうなあ。内角球に手を出しちゃだめだ、カウントをとりに外角ヘカーブが来るから、脇をしめてそれを右方向へ打ち返さなきゃ」  あんなピッチャー、と終がいうのは、昨シーズン、セ・リーグで一八勝をあげた好投手である。それほど球速はないが、コントロールがよくて正確に打者の弱点をつく。四回表、パ・リーグの攻撃はこの投手に完全にしてやられた。三振、セカンドゴロ、ファーストゴロで三者凡退し、終はじだんだ踏む。  四回裏、セ・リーグの六番打者が左中間に放った大飛球を、パ・リーグのセンターがグラウンド最深部まで背走して|肩 ご し 捕球《オーバーショルダーキャッチ》する。ホームを踏みかけていた二塁ランナーは、あわててもどろうとしたが、球は二塁へ送られて、あざやかに併殺が完成した。  竜堂兄弟をふくめたパ・リーグファンが手をたたいているとき、VIP室では、ひと騒動が持ちあがっていた。権力亡者のもとへ、権力亡者が談判のために押しかけたのだ。ガードマンをつきとばすようにして、あらあらしくVIP室に姿をあらわしたのは、先々日の夜、高輪のホテルにいた男たちだった。 「これはこれは、日本兵器産業連盟の藤木さんではありませんか。あなたはゴルフにしか興味をお持ちではないと思っておりましたが、プロ野球にも関心がおありとは……」  蜂谷の虚礼を、藤木は乱暴にさえぎった。 「竜堂兄弟に対する権利は、われわれが優先する。おぼえておいてもらおう」 「そういうことは、彼らの身柄を確保なさってから、おっしゃるべきですな」  蜂谷の紳士然とした顔に、まがまがしいほどの嘲弄の色彩が揺れていた。対照的に、藤木の顔からは、どす黒い怒りの粒子が噴き出している。 「この泥棒猫め! われわれの相談を盗みぎきして計画をたてたのだろう。盗聴は君らのお得意だからな」 「失礼ですが、私どもの情報収集力を、みくびらないでいただきましょう。あなたがたがつかんでいる情報など、こちらはとうに存じておりました。盗みぎきなどとおっしゃるのは、下衆《げす》のかんぐりというものです」  蜂谷の声も平静を欠いた。藤木の台詞《せりふ》に、したたか古傷をえぐられたのだ。むろん蜂谷は、法を侵《おか》して盗聴をおこなったことを、反省などしていない。ばれたことを、いまいましく思っているだけである。  田母沢がふいに話に割りこみ、藤木にむけてつばをとばした。 「お前らに、あの兄弟は渡さんぞ。あの兄弟の身体はわしのものだ。あやつらはな、わしの手で解剖されるために、これまで生きてきたのだ。手を出すのは許さんぞ」  変質者としての正体をむきだしにした田母沢を見やって、藤木が吐きすてた。 「ここは旧満州ではありませんぞ、田母沢先生。生体解剖など軽々しくやっていただいてはこまります」 「ほう、こいつはおもしろい。えらそうなことをほざくものじゃな、藤木よ」  けけけ、と、田母沢は、怪鳥じみた笑声をたてた。 「脳死してもいない患者を脳死したとして、その肝臓を兵器産業連盟会長に移植するよう、わしに頼んだのは誰だ? 兵器産業連盟のスキャンダルを追求していたフリー・ジャーナリストを、エイズに感染させるよう、相談を持ちかけたのは誰じゃった? ええ、いうてみい。いうてみんかい」  藤木は青ざめた。そこで、いかにも大物ぶって、オリエント石油会長の小森が仲裁《ちゅうさい》にはいる。 「まあまあ、たかが民間人の子供についてだ、目くじらを立てることもないではないか」  この期におよんでも、藤木と蜂谷とを代表とするふたつのグループは、竜堂兄弟の力を正しく評価していなかった。彼らにとって、力とは、権力であり。財力であり、組織力であって、それらの裏づけを持たない個人など、何ら力をもたない存在であるはずだった。政府、政党、企業、それに各種の圧力団体。それらの幹部だけが人間であって、それ以外の者など、家畜であるにすぎなかった。だからこそ、「竜堂兄弟に関する権利」などを主張できるのである。竜堂兄弟の人権など、彼らは完全に無視していた。  小森がべらべら舌を回転させている。 「どうかね、みんな。あの竜堂兄弟とやらは、四人いるのだ。四人を四人とも、ひとりが独占することもあるまい。兄弟ひとりひとりについて、占有《せんゆう》権なり優先権なりを調整する。これでどうかな」 「よかろう、わしはあのふたりをもらう。他のふたりは、お前らで煮るなり焼くなりするがいい」 「田母沢先生、それではまとまる話もまとまりません。わがままもほどほどにしていただきたいですな」  醜悪な台詞《せりふ》がVIP室に飛びかった。  ところで、権力者にとって、平等な関係などというものは存在しない。彼らは序列をだいじにする。序列が上の者は、下の者を奴隷のようにあつかってよいのだ。だからこそ、序列が上になるよう。努力と陰謀をおこたらないのである。  ビッグボウルにはVIP室があり、そこには蜂谷らのグループが陣どって、地上を見おろす天界の住人のようにふるまっていたわけである。だが、彼らの頭上には、|S《スペシャル》VIP室というさらに豪華な部屋があって、そこにいるふたりの人物は、蜂谷らを足もとに見くだしているのだった。SVIP室は、VIP室より縦に二メートル、横に一メートル広く、天井が一五センチ高い。このようにこまかい数宇は、一般市民にとってばかばかしいだけだが、部屋にはいる人間にとっては重要なことなのである。調度のすべてが、VIP室のそれより一割から二割高価であるという事実も、たいへんにだいじなことなのであった。「格差」というものは、優越感を満足させるために、欠くべからざるものなのだ。そして、ピラミッドとは、上へいくほど狭くなる。「身分」が上になるほど人数がへるのだ。  SVIP室の客はふたりきり。ひとりは、黒い髪の女性だった。年齢は二〇代後半であろうか。東洋にあっても西欧にあってもエキゾチシズムを感じさせる顔だちで、欧亜混血《ユーラシアン》であるかもしれない。ややあごが張ってはいるが、かけねなしの美女である。ただ、粘液《ねんえき》めいたものが白い肌からにじみ出るような印象があった。  いまひとりは、アングロサクソン系の外国人だった。グレイがかった金髪と、青灰色の目をした四〇代後半の男で、背が高く、それにふさわしい厚みのある身体つきは、明るいブラウンのスーツにつつまれて若々しい。ハーバード大学出身の紳士という外見は、そのまま事実であった。 「小物どもが、醜悪な争いをしている」  耳からイヤホーンをはずして、紳士は英語であざけった。VIP室の会話や争いは、高性能マイクを通して、すべてこの部屋に流れてきているのだ。蜂谷のような男は、自分では盗聴作戦の指揮をとるくせに、自分が盗聴されているとは気づかぬものである。ちなみに、SVIP室には、きちんと、盗聴防止システムが完備されている。このSVIP室を確保するには、一年間で三〇〇〇万円の専有料と、一試合につき五〇万円のサービス料が必要だといわれていた。むろん食事や酒は別料金である。 「しょせん奴らは、日本という狭い枠の中で、餌をとりあう鶏《にわとり》にすぎん。あの鶏どもを、君はどうあつかうつもりかな」 「肥らせてから食べます」  優雅なほどの冷酷さで、女は言い放った。 「まずければ捨てます。それだけのことですわ」 「すると大半がゴミ捨て場行きになりそうだな。まあよい、使いすて文化は現代日本の特徴だ」  男は笑い、それをおさめるとやや口調をあらためた。 「しかし、それほど日本が憎いかね、君は?」  女の横顔にあてられた男の猊線に、検証するような光がふくまれている。 「いいえ、大好きですわ。ですから、他の人に渡したくはありませんの。わたしひとりで全部食べてしまいたいと思っています。いけませんかしら?」 「食べすぎると美容に悪いよ、レディ」  紳士は重厚そうな笑いをうかべ、思い出したように、窓ごしの視線をグラウンドに放った。軽蔑の笑み皺《しわ》が、端整な顔の数ヵ所にきざまれた。 「ふん、日本人という奴は、ハードウェアの形さえととのえば内実《ないじつ》がともなうとでも思っておるのか。奴らのべースボールは、こんなりっぱなスタジアムにはふさわしくない。それでも、ラグビーにくらべればまだましだが……」  男はウーロン茶のグラスに手を伸ばした。アルコールやタバコとは無縁の人生を送ってきた男だ。 「日本はいま肥満の極に達した豚だ。いま食べなければ、いながらにして腐敗するだろう」 「それではもったいなさすぎますわね」 「そういうことだ。いま食べてこそ、世界の血肉となりえるのだ。滅びるのは奴らの倣慢さと貪欲さの当然な報いだが、せめて多少は他人の糧《かて》となってもらわねばな」  男の名は、ウォルター・|S《サミュエル》・タウンゼント。マリガン国際財団常任理事・兼・極東地区総支配人。四人姉妹《フォー・シスターズ》の日本、韓国、台湾、フィリピンにおける前線司令官であり、昨年までアメリカ合衆国政府にあって、国防総省次官をつとめていた。つぎに政界に復帰するときには、国防長官ないし安全保障問題担当の大統領補佐官であろうといわれている。  女の名は、バトリシア・|S《セシル》・ランズデール。通称「レディL」。弁護士にして哲学博士。マりガン国際財団参事。そして東京赤坂分室長に就任したばかりであった。       ㈼ 「美しいドラゴンの末裔たち……」  レディLの瞳が一枚の写真にむけられた。どうやって入手したのか、それは竜堂兄弟が勢ぞろいしたスナップ写真であった。彼女のねっとりした視線が、一点に集中した。彼女の視線の先で、次男坊の続が微笑している。むろん彼女にむけたものではありえないが。 「ドラゴンは。東洋では聖なるものの象徴だ。東洋といっても、ペルシアあたりでは。西欧と同じで、ドラゴンは悪の象徴だがね」 「東と西で、竜に対する考えかたが、こうもちがうのはなぜでしょうね、ミスター・タウンゼント」 「さあね、私は伝承学者ではないからな。だが、水爆の原理はわからなくとも、水爆の利用法は知っている。それで何ら私の人生と仕事にさしさわりがあるわけでもない」  タウンゼントは軽く笑った。 「君がどうやって、美しい危険なドラゴンを飼いならすか、楽しみにしておるよ」  耳をつんざくような歓声が、SVIP室の外で湧きおこった。無死一、二塁からパ・リーグの五番打者が、内角へくいこむシュートに対して身を開き、右中間へはじきかえしたのだ。打球は、ダイビングキャッチをこころみたライトのグラブをかすめて、グラウンドの最深部に落ちた。ふたりのランナーは、すでにそれぞれのベースを蹴ってホームへ殺到していた。ようやくセンターが打球に迫いつき、ショートに送球したとき、打者走者は三塁へすべりこんでいる。  ごうごうと球場内部は揺れ動いた。屋内球場での騒音の反響はすさまじく、最高一二五ホーンに達し、これまでしばしば難聴者の多出が問題にされている。だが、いまは誰もそんなことを気にしてはいなかった。終も続も、「やったやった、同点同点!」と叫んでとびあがり、隣席の見知らぬおじさんと握手するのにいそがしかった。  この回、パ・リーグが長短六連打で四点をうばい、一気に逆転した。竜堂兄弟は、叫んだり飛びあがったりで、けっこう運動し、そのイニングが終わると、ひと息ついて、トイレへむかった。  ビッグボウルのトイレは、明るくて清潔で近代的だ。かつて外人選手が、バ・リーグの球場のトイレの汚ないことを理由にアメリカへ帰ってしまった時代もあるのだが、もうそんな時代ではない。  さんざん待たされて、ようやくトイレをすませるまで一〇分以上かかった。つぎのイニングが、とっくに始まっている。いそいで客席へもどろうとしたとき、ふたりの男が、少年たちの前に立ちふさがった。ひとりは中年で、もうひとりはやや若く、ふたりとも半袖シャツがはじけそうなたくましい身体つきだ。 「何だい、おじさんたち」 「警察の者だ」 「警察が何の用だよ」  終の問いには答えず、色のどす黒い、髪をみじかくした中年の男は薄笑いを浮かべた。ズボンの尻ボケットに手をやる。引きだした黒い物体を、キャッチボールのような何気なさで、余にむかって放った。思わず余がそれを受けとめてしまった。それは、たいして重くないが、黒革の財布だった。 「おい、福原、あのガキの手にあるものは何だと思う? 言ってみろ」 「そうですな、おやおや不思議なことで。あれは越川《こしかわ》警部補どのの財布ではありませんか」  福原と呼ばれた男は、でかい図体《ずうたい》をくねらせるようにして、越川警部補とかいう男に、とりいってみせた。まったくの猿しばいである。 「そうかそうか、こともあろうに警察官の財布を盗むようなガキは、愛情をもって教育しなおしてやらなきゃならんなあ」  余はべつに鈍感な少年ではないのだが、警部補と名乗る男の、あまりに悪辣なやりかたがよく理解できず、びっくりして、黒い財布をつかんだまま立ちつくしている。  その財布を横あいからひったくったのは、終の手だった。財布は風を切って飛び、越川警部補とやらいう中年男の赤ら顔にたたきつけられていた。ぴしゃりとはでな音がして、財布は越川の顔からずり落ち、薄赤いあとを残した。 「そんな金欠病の財布を、誰が盗むか。盗まれたいんだったら、もうすこしお金を入れておけ!」 「こ、孺子《こぞう》……!」 「いいか、弟に手を出すんじゃないぞ」  終の声に、ほんものの怒気がこもっていた。  年長のふたりがいない以上、末っ子の余を保護する責任は、終にある。そのことを、終はわきまえていた。竜堂家の男子たる者、日ごろはいくら能天気でいいかげんに見えても、自分の責任はわきまえており、しかもそれを誇りにしているのだ。 「きさまら、年長者に対する礼儀を知らんようだな」 「権力をかさにきて、子供をいじめるような卑怯な奴に、どんな礼儀を守れっていうんだよ。いい年して、子供だっているだろうに、アホとちがうか。自分のやってることを見て、すこしは恥ずかしくないのかよ!」  速射砲のように、反撃のことばをたたきつける。いっそ爽快なほどだが、面とむかって言われたほうは、耐えられるものではなかった。 「このガキが! 礼儀を教えてやる」  吼《ほ》えたけった越川が、右の拳をかため、終の顔めがけて突きだした。本気でなぐりかかったのだ。だが、それを受ける義務など終にはない。  終の脚が飛んで、越川の腹を蹴った。異様な音は、胃壁が裂けたのだろうか。ぐわっと胞哮めいた悲鳴がひびき、越川は口から胃液を吐きながら宙を飛んだ。背中から壁にぶつかり、床に落ちると、げえげえ胃液を吐きつづける。 「きたないなあ、公衆道徳を守れよ、ここはみんなのトイレだぞ」  うんざりしたような表情の終に、今度は福原がなぐりかかった。だが、余が横あいからさっと脚を出すと、福原はもんどりうって前転し、越川の吐きだした胃液の小さな池に顔をつっこんだ。前歯を折って悲鳴をあげる。  水道橋ビッグボウル完全崩壊事件の、これが幕あけのベルであった。  このとき、ビッグボウル三塁側のAトイレには、何者かの手によって、「使用中止」の札が立てられていた。そのため、幾人かの観客が、舌うちしながらBトイレにむかうことになったのである。だが、なかには、「何だっていまごろ使用中止にするんだ。清掃なら試合終了後にすべきだろう」と、係員に抗議する人もいた。係員も奇妙に思って、球場の管理オフィスに連絡する。オフィスでは、「VIP室からの命令です」とはいえず、あいまいに応対したが、いずれにしても、事をくわだてる人間たちに、それほど時間の余裕はなかった。 「犬の皮をかぶった蝙蝠《こうもり》」こと奈良原は、VIP室で生じた醜悪な争いを知っていたから、よけいにあせった。竜堂兄弟の身柄を手みやげにして、自分の存在を、どちらかの陣営に高く売りつけねばならない。自分の後輩にあたる悪徳刑事を使い、さらに五〇人もの部下を動員して、ぜひとも終と余をとらえようとしたわけである。ところが、物音をきいて、「使用中止」の札のそばをとおり、トイレへの角をまがったところで、ばったり終と余に出くわしてしまった。  あわてて逃げようとして、奈良原はつまずき、見苦しく四つんばいになってしまった。その頭上を軽く飛びこして、終が奈良原の退路をふさいでしまう。  四つんばいの身をおこしたものの、進退きわまってしまった奈良原の顔を見て、余が小首をかしげた。 「こいつ、どこかで見たことがあるなあ。そう思わない? 兄さん」 「うん、たしかに見おぼえがある」  じろじろと四つの瞳に見つめられて、奈良原は、はなはだ居心地の悪い思いを味わった。余が声をあげた。 「思いだした。船津とかいう気色悪い老人の、手下のそのまた手下だよ」 「い、いや、ちがうちがう、おれはそんなものじゃない。気のせいだ、おぼえちがいだ」  子供を相手に必死に弁解するのは、みじめでもあり滑稽《こっけい》でもあるが、そんなことを考える余裕は奈良原にはない。こんなぶざまな失敗を一度ならずしたからには、犬としての役割さえ与えてもらえなくなるだろう。だが、とにかくいまは、少年たちが持っている、圧倒的な、物理的な力が、奈良原にはおそろしかった。自分が物理的な力によって他人を圧迫してきたからである。 「ああ、そうか、思いちがいかもしれない」 「そ、そうだとも、思いちがいだよ、坊や」 「でも、おっさんを痛めつけたら、正確なことを思い出すかもしれないな」 「そうだね、血を流すのが一番かもしれないね。やってみようよ」  天使みたいな顔で、余が、兄に調子をあわせてみせる。むろん演技なのだが、奈良原は全身を汗にまみれさせた。彼の周囲だけ、ビッグボウルの冷房が機能障害を生じたように見えた。以前に竜堂兄弟とかかわりあったときに負傷した肋骨が、急にまた痛みはじめた。  奈良原は壁にはりついてあえいだ。ふいに、その両眼に、狡猜《こうかつ》な光が小さくひらめいた。       ㈽  戦闘に際しての勘のよさ、という点で、おそらく終が兄弟のなかで随一であろう。奈良原の眼光が、終に、危険の急接近を知らせた。彼が振りむいた瞬間、彼の肩の二・四ミリむこうを、木刀の風がかすめさった。 「こっちだ、余!」  叫びざま、終は、目の前に立ちはだかった男を蹴たおした。男は固い床に横転し、短いうめきとともに動かなくなる。  他人から見たら、とてもそうは思えないであろうが、これでも終は、いくらかは自制しているのだ。彼が本気で蹴りつけたら。人体などちぎれてしまうだろう。  余が手を伸ばし、倒れた男の手から木刀をもぎとった。文字どおりころがりながら、奈良原が女子トイレへ逃げこもうとしている。余が軽く木刀を投じると、それは奈良原の|尾てい骨《びていこつ》[#「尾てい骨」の「てい」は骨偏に氏に一。これは変換で出せるが、保存がUNICODEになるのでひらがなとする]に命中し、「ぎゃっ」と悲鳴を発した奈良原は。顔を女子トイレのドアにはさまれた姿勢で気絶した。  五〇秒後、ビッグボウルを満員にした観衆の一部は、トイレの方角から駆けだしてきたひとかたまりの人影に、試合への熱狂をさまたげられた。ふたりの少年が鳥のようなすばやさで逃げ、それを追う一個小隊ほどのおとなたちは、完全に逆上して見境《みさかい》を失っている。  満員の観客席の背もたれから背もたれへ、少年たちは跳《と》びうつっていった。観衆は仰天したであろうが、何やら正体もつかめぬうちに、人影らしきものは、べつの場所に移動してしまっている。  それを追う黒服や戦闘服の男たちは、必死の形相だが、少年たちの京劇俳優のような身軽さに対比すると、ちゃんこ鍋をたいらげた直後の力士みたいに鈍重だった。濁音だらけのわめき声を発して、木刀や警棒を振りまわし、観客にぶつかっては、腹だちまぎれに怒声をあびせ、ときにはなぐりつける。そのありさまが醜悪をきわめた。  終にすれば、危険な男たちの姿を人目にさらし、彼らに手を出させないようにする、そのつもりだったが、男たちは完全に逆上していて、その計算は外《はず》れた。  木刀になぐられた客が悲鳴をあげ、観客席の一角に生じた混乱は、しだいに拡大していった。VIP室からそのありさまを凝視する者がいる。 「おうおう、すばらしい動きだ。あの躍動する生命カを見るがいい。これだけわしの解剖意欲をそそる材料は、めったにおらんぞ」  田母沢の赤紫色をした唇から、よだれがしたたり落ちた。オペラグラスに映ったみずみずしい肢体にメスをくいこませる光景を妄想し、それによって快楽中枢を刺激されているのだ。日本の医学界、製薬業界に絶大な権力をふるうこの薄ぎたない老人は、淫楽《いんらく》殺人狂であった。 「すごい、すばらしい。あの身体はわしのものだ。誰にも手は出させんぞ」  田母沢のたわごとなど、このとき誰も聞いてはいなかった。大の男、それも日本の権力社会で頂点を争おうかという男たちが、中学生不良グループのようににらみあっているのだ。いや、むしろ猿山の猿のように歯をむいて対決しているのだった。  田母沢のオペラグラスのなかで、終たちのダイナミックな奮戦ぶりはなお続いている。  伸ばされた男の手首をひっつかむと、終はその身体を肩ごしに投げとばした。八○キロをこす巨体が、ゴムボールのように宙に放りだされる。  悲鳴とともに、男の巨体はフェンスをとびこえ、グラウンドの人工芝に落下した。とっさに受け身の姿勢をとったのは上できだが、人工芝にたたきつけられた衝撃と痛みで、動くこともできない。大の字に寝そべって、うめき声をもらすばかりだ。  スピーカーが、いたけだかに呼びかけた。 「グラウンドにはいりこんだお客さま! すぐにお席へおもどり下さい。試合続行のさまたげになります! ただちにおもどり下さい」  人工芝の上に大の字になったままの男も、できればその指示にしたがいたかったにちがいない。自分の自由意志でグラウンドに侵入したわけではないのだ。 「おっさん、いいかげんにしろや」  大学を卒業したばかりのセ・リーグのレフトが、男に駆けよって、腹だたしげにどなった。だが、その声は、本人の耳にもろくに聴こえなかった。 [#天野版挿絵 ]  いまや観客は総立ちになり、試合を妨害する不埒《ふらち》者たちにむかって、すさまじい罵声をあびせかけた。それだけではない。ひいきチームが逆転されて気分を害しているセ・リーグファンたちが、群衆心理に乗って、グラウンドに物を投げこみはじめたのだ。 「物を投げないで下さい。投げないで下さい。すぐにやめて下さらないと、規則によって退場していただきます」  場内放送が絶叫するが、とうてい聴こえるものではない。アンパイアにむけても空瓶や紙コップが飛び、たまりかねたアンパイアが試合中断を宣告した。守備についていたセ・リーグの選手たちが、小走りにベンチへ駆け出すと、観衆がそれを追うようにフェンスを乗りこえてグラウンドになだれこむ。  警備に動員されていた六〇人の警官が必死になって制止しようとするが、五万人以上の暴走をふせぐなど不可能である。しかも、このときをねらっていたかのように場内の照明が消えてしまった。  いきなり暗黒と化したビッグボウルの内部で、悲鳴があがり、天井に反射した。これで皆が動きをとめれば収拾《しゅうしゅう》もついたのだろうが、そうはならなかった。混乱をさらに助長させることになってしまった。  各処で小さな火がともった。観客の幾人かが、ライターやマッチをつけたのだ。むろんビッグボウル内は、完全禁煙となっているのだが、ライターやマッチを持参することまでは禁じられていない。新聞紙やパンフレットを丸めて、それに火をつけ、松明《たいまつ》がわりにする。だが押しあいへしあいするうちに、それは消されたり奪われたりするのだった。 「はぐれるなよ、余!」  弟の手を引っぱって、終は出ロへむかおうとした。通勤ラッシュというもおろかな人の波だ。悲鳴、怒声、子供の泣芦、家族どうしが呼びあう声がとびかい、球場全体をゆるがす。事故や災害にそなえて、設備もととのい、避難訓練もおこなわれているが、いったんパニックとなった後は、何の役にもたたない。老人が倒れ、その上を何人かが踏みこえていく。突きとばされてフェンスから転落する者がいる。すでに収拾のしようがなかった。  同時刻、千代田区霞が関の警視庁では、刑事部長の南村《みなみむら》警視正が、不機嫌の三文字を顔に大書して、客と面談していた。南村は五○代前半、山村で木を伐採《ばっさい》しているのが似あいそうな、ごつい男だが、警察庁上級職試験を合格したエリートである。すくなくとも、昔はそうだった。 「南村君、こちら警視庁公安局理事官の若泉《わかいずみ》警視正だ。上級職試験で君の五期後輩だそうだが……」  警視総監から紹介された若泉は、肉の薄い頬と厚い唇をふるわせるようにして、笑いに似た表情を浮かべた。彼はすぐ用件を切りだしたが、それは形は要請であって、現在、水道橋のビッグボウルで発生している混乱に対し、刑事部はいっさい関与しないでもらいたい、すべて警備および公安の両部門で処理するから口出し無用、というものであった。 「わかりました。ですが、もういいかげんにしていただきたいもんですな」  南村警視正の声が、怒りと屈辱に、わずかに震えている。  竜堂家がらみの件で、警視庁刑事部は、さんざん迷惑をこうむっているのだった。共和学院の院長一家が甥たちに殺害された、という虚報事件では、南村の前任者が責任をとって辞職させられた。「さる筋」をとおしての圧力で、記者会見されたあげくの、みじめなスケープゴートぶりだった。 「そもそも公安の奴らは、何様のつもりだ」  公安警察は、行政機関であり、公僕《こうぼく》の集団である。彼らの人件費も、活動費も、国民の税金から支払われている。だが、彼らの名も予算も活動内容も、国民の前に公開されることはない。それどころか、おなじ警察の内部でさえ、公安関係の活動内容を知らされることはない。すべてが特権と機密の黒いべールにおおわれている。  もともと日本が自由民主主義国家であり、思想と言論の自由が保障されている以上、公安警察など存在すべきではない。極左過激派がビルに爆弾をしかけて市民を殺傷したら、殺人犯として刑事部が捜萱すればよいはずである。南村はそう思っていた。思っていても、口には出せない。警察にかぎったことではないが、組織内部に言論の自由などないのだ。公安の批判をしたとたんに、左翼反体制分子あつかいされ、退任に追いこまれるだろう。 「警察官とは、町のおまわりさんであるべきだ。公安の奴らのどこがおまわりさんだ。戦前の特高警祭とちがうところは、公然と拷問をしないことだけではないか」  不愉快な客が帰ると、南村は若い部下のひとりを呼んで、竜堂家に関して公安と別ルートで調査するよう命じた。公安の訪問は、完全な逆効果となったわけである。童顔で大男の部下は、南村の命令に、首をかしげてみせた。 「はあ、ですが……」 「ですが、何だ?」 「公安のやることに、あまり口をお出しにならないほうがよろしいのでは。彼らに睨まれると、ただ出世できないだけではすまないのではありませんか」  忠告めいたことを口にする。その小ざかしげな態度が、南村の気にさわった。彼はハンカチをさがしたが、見あたらなかったので、ティッシュを箱から抽《ひ》きだして、顔や首すじの汗をぬぐった。 「おれはべつに公安と張りあうつもりはない。ただ竜堂家とやらに関して、不可解なことが多すぎる。刑事部として、いちおうの事情を知っておきたいし、あまり筋がとおらんようなら、何とかしたいというだけだ」 「は、わかりました」  口ではそう答えたが、部下の表情は、べつのことを語っている。そんな書生論をぶつようだから、刑事部などにまわされるのだ、と言いたげであった。警察官僚の世界では、警務や警備、公安といった部門が出世コースで、刑事、防犯といった部門は冷遇されている。上級職試験に合格しながら、この年齢で警視正というだけでも南村の不遇がわかる。  南村は、これ以上の出世はあきらめていた。出世をあきらめれば、筋《すじ》をとおし正論を主張することもできるだろう。そう思い、ふいに南村は腹がたった。なぜそんなことを考えねばならないのか、警察で筋をとおせないとすれば、何かがまちがっているのではないか、と。       ㈿  ビッグボウルの大騒動は、TVの電波に乗って、日本の各地にとどいた。はなやかなオールスター戦を見物するためにTV前に陣どっていた二〇〇〇万人以上が、収拾のつかない混乱を目撃したのだ。TVを見た人々は、おどろきもしたが、やじ馬精神を刺激されもして、よけい熱心にTV画面に見入った。そして場内の照明が消えるとTV局には抗議の電話が殺到したものである。  中野区、哲学堂公園から北へ五分ほど歩いた静かな住宅地にある竜堂家でも、長兄の始と次兄の続が、居間のソファーで、TVを前に、生きた銅像になっていた。二日前、従姉妹の鳥羽茉理が考えたことを、ふたりも考えたのだ。つまり、騒動の中心に竜堂兄弟あり、ということである。 「こまったものですね。これだから終君たちからは目を離せません」  続が目をみはったのは、兄がいきなりソファーから立ちあがったからである。 「続! オールスターの切符を持ってきた新聞屋ってのは、知った顔だったか?」 「え、いえ、はじめての顔で……」  言いさして、続は、白い秀麗な顔に、緊張の色を走らせた。 「すると、兄さん、もしかしてあれは、ぼくたちを引き離すための策略だったというんですか」 「かもしれん。いや、たぶんそうだろう。フェアリーランドの件がある」  あのとき、「敵」は、兄弟四人全員を拉致《らち》することに失敗した。それに学んで、四人を分断しようとこころみたのではないか。 「すみません、ぼくが甘かったんです。まさか、こんな手段を使ってくるなんて……」 「気にするな、お前さんもおれも、全能じゃないし、奴らほど悪辣《あくらつ》じゃないってことだ」  始としては、自分たちがどう行動するか、決断せねばならなかった。終や余が混乱に巻きこまれているであろうビッグボウルに駆けつけるか。それとも、弟たちの帰宅を待つか。  終と余が無力だとは思わない。フェアリーランドでは、弟たちのやりすぎを心配したほどだ。だが、たてつづけの波状攻撃に、始も不安をさそわれている。彼が考えているように、老人の死後、分裂した権力社会内の諸勢力が竜堂兄弟にむらがってくるとしたら、きりがない。  門を荒々しく開く音と気配がして、幾人かの足音が敷地内に乱入してきた。始と続の視線が夜の庭にむけられた。黒々とした樹々を背景に、人影がテラスへ躍りあがってくる。一片の礼儀もしめさず、綱戸が引きあけられた。戦闘服を着こんだ男たちが、特殊警棒や日本刀を手に、土足のまま居間へあがりこもうとする。  続が一歩すすみでた。白皙の頬《ほほ》に血の色が浮きあがっている。 「何のご用ですか。人の家を訪ねるときは、玄関にまわってください。それに靴をぬぐのは、日本の家では最低限の常識でしょう」  その声を無視して、先頭の男がテラスから室内へ踏みこんだ。 「おやめなさいといっているでしょう。聴こえないのですか」  続の口調は無機的なほど静かだった。このような状況でも、「やめろ!」とわめいたりしないのが、続らしいところである。そして、そのこわさを理解しているのは、彼の兄弟と、一部の親族だけであった。 「何がおやめなさいだ。気どってんじゃねえや」  あざけった男が、土足を踏みだして続の肩に手をかけようとする。その瞬間、続は爆発した。  正面に立つ男の股間を、ひざで蹴りつける。絶叫をあげてのけぞる男を、さらに突きとばすと、男は仲間の身体に衝突し、だきあうような形で倒れこんだ。その仲間はテラスの石に後頭部を打ちつけて失神した。そのときすでに、三人めが右ひざの骨を蹴りくだかれ、四人めのふるったブラックジャックは空を切って、伸びた右腕を手刀の一撃でへし折られている。にごった悲鳴が連鎖する間に、五人めと六人めがテラスにはっていた。ひとりは前歯をすべて折られ、口を真赤にして失神している。ひとりは肋骨《ろっこつ》五本を蹴折られていた。 「ひいい……」  七人めの男は腰をぬかしていた。地面にすわりこんだ男のズボンに、みるみる失禁の黒い染《し》みがひろがっていく。猿面が奇怪なほどにゆがみ、恐怖と屈辱の影が全身をおおった。  猿男の顔が、始と続に、先々夜の記憶をよみがえらせた。続の秀麗な美貌が、残忍になる寸前の辛辣《しんらつ》さをたたえた。ゆっくりと一歩あゆみでると、猿男は「ひっ」と咽喉《のど》をつまらせたようなうめきを発した。白眼をむく。そのまま自分がつくった異臭の池にへたりこんで動かなくなった。  それまで続の怒りに事態をゆだねていた始が、アンモニア臭に眉をしかめつつ、続を制して猿男に近づいた。充分に用心しながら、猿男の内ポケットをさぐり、身分証明書を引っぱりだす。「北アジア文化地理研究会・加瀬賢吾《かせけんご》」と記されていたが、どこまでほんとうかあやしいものである。それでもいちおう、その身分証明書を始は自分のポケットにおさめた。 「不愉快な話だが、おれたちは権力亡者どものゲームの標的にされているのかもしれない」  兄の独語めいたつぶやきに、続は、形のよい眉をひそめた。 「つまり、ぼくたちの身柄をめぐって、権力亡者どもが競争したり暗闘したりしているということですか。すると、今後はエスカレートする一方になるかもしれませんね」  始はうなずき、しあわせに気絶している猿男を、うとましそうに見おろした。  午後八時二〇分。  ビッグボウルの大混乱は、まだつづいている。暗黒の中で。突きとばしあい、どなりあい、倒れた人を踏みつける。かみつく。ひっかく。素手で争うだけではない、メガホンやビール缶でなぐりあい、靴をぬいでそれで顔をなぐり、ついには座席をとりはずして相手にたたきつける者さえいる。  VIP室およびSVIP室だけは、非常電源によって、薄暗いながらも、いちおう照明がともされていた。  レディLが他人ごとのように平然という。 「いま動いても無益ですわね。おとなしく待ちましょう」 「それがいい。ただ、火事になったらすこしこまるな」  彼らは外界の狂騒とは無縁の場所にいた。だから、竜堂終が敵のナイフ攻撃をかわして、ナイフを力まかせに蹴あげたことを知らない。その厚刃の大型ナイフが、観客席から五〇メートル以上も飛んで、時速三〇〇キロのスピードで特殊繊維の屋根を突き破ったことも知らない。  ビッグボウルの屋根に穴があいたのだった。  ○・〇三気圧の差によってささえられていた特殊繊維の屋根は、夜空にむかって気圧差の風を吹きあげた。  穴はみるみる拡大し、張りめぐらされた屋根はすさまじいスピードでめくれあがっていった。風船のようにしぼんでぺしゃんこになってしまわなかったのは、いちおう軽金属の綱《あみ》が枠《わく》となって、四〇〇トンの屋根をささえていたからである。  東京の熱帯夜は、スモッグまじりの雲が低くたれこめ、それに不夜城のネオンや灯火が反映して、薄明るくピンク色を呈《てい》している。屋根の穴がひろがるにつれて、その薄明るさが場内にさしこみ、人工芝を奇妙に非現実的な光で照らしだした。  暗黒の場内で右往左往《うおうさおう》していた群衆も、それに気づき、頭上を見あげて、「ああ……」とうめいた。  特殊繊維の屋根は完全にめくりあがり、周辺部に巻きとられてしまった。いまや、軽金属のフレームだけが残されており、外から見ると、もはや巨大なサラダボウルには見えなかった。それは巨大なざるでしかなく、じつにみじめで、そのくせユーモラスな姿を東京の都心にでんとすえていたのである。やがてのぼる朝陽がその勇姿を照らしだすだろう。  ……こうして水道橋のビッグボウルは、日本で最初に建設され、最初にぶっこわされた屋内野球場となったのである。 [#改ページ] 第六章 あちらこちらで品さだめ       ㈵  竜堂家の庭は、近ごろの建売住宅なら三戸分ほどの広さがある。樹影が濃く、芝は伸びっぱなしになっている。そのなかで、粗暴な襲撃者六人が苦痛にうめき、気絶からさめた七人めは、猿面を恐怖と敗北感に切りきざまれながら、竜堂兄弟の年長組ふたりに見おろされていた。虚勢を張るにも、必死の努力が必要だった。 「い、いずれにしても私は小物にすぎんよ。しめあげたってむだだ。事情をろくに知りはせんのだからな」 「小物をつぶせば大物が動きだす、という可能性もある。それに……」  不吉きわまる始の表情だった。 「短気な人間にとっては、ストレス解消も必要なことなんでな。単なる腹いせで人を殺す人間だっているだろう?」 「そ、そんな。おちついてくれ。いや、おちついてください」  猿男の加瀬賢吾は、それこそ、猿がニシキヘビに呑《の》みこまれるような表情であえいだ。  抵抗する意欲も、もはやない。加瀬のような生きかたをしてきた男は。あらゆる人間を強者と弱者にわけ、強者が弱者を支配する、という関係しか、受けいれることができないのだ。彼はこれまで権力機構の末端《まったん》にぶらさがり、一般市民に対する強者としてふるまってきた。暴力と権力をふりかざし、さんざん弱い者いじめをおこなってきたのだ。  ところが、いまや加瀬は弱者であり、強者である竜堂兄弟の圧迫と支配を受けねばならなくなったのだ。屈辱感はともかくとして、彼らの命令にしたがわねば、加瀬に未来はなかった。 「オールスター戦の入場券を持ってきたのは、お前のさしがねだな」 「そ、そうだ、いえ。そうです」 「水道橋のビッグボウルには、お前の仲間がいるんだな」 「は、はい、さようで」 「よし、おれたちを車でつれていけ」  加瀬は襟首をつかんで持ちあげられた。彼の身体をささえているのが、竜堂始の左手の指二本にすぎないと知ったとき、加瀬は、逃亡を完全に断念した。 「何とぶざまじゃないかね。レディ、このビッグボウルの醜態《ざま》は。合衆国の核の傘をはなれた日本のようだ」  ビッグボウルのSVIP室で、タウンゼントは脱に入った笑声をもらしている。安全な場所にこもって、「下界」の混乱や騒動を見おろすほど楽しいことはない。神が地上から悪や愚かさを一掃しようとしない理由がよくわかる。  逃げ場を求めて、SVIP室の近くまで迷いこんできた人もいるが、すべてボディーガードによって追いはらわれた。いついかなる事態でも、ごく一部の人間だけは、安全に生きのびることができるようになっているのだ。 「……満州帝国が崩壊したとき、日本軍の幹部は。保護すべき民間人を見すてて逃亡した。いわゆる中国残留孤児のなかに、日本軍高官の子はいない。わたしの祖母がソ連兵に姦《おか》されていたとき、それを守るべき日本軍は、自分たちだけ安全な場所へ逃げのびていたのだ……」  レディLが奥歯をかみしめたとき、手もとのリストをのぞきこんでいたタウンゼントが顔をあげて何か言った。下のVIP室でいがみあっている人物の品さだめをやっていたようである。 「……蜂谷あたりは使えるだろう。あの人脈と、政治警察官僚としての経験は、やはりすてがたい」  タウンゼントが、たくましいスポーツマンの手で、あごをつかんだ。 「君なら、あの尊大な警察官僚をどう飼いならすかね、レディ?」  返答はひややかだった。 「優越感を刺激するにつきますわね。日本人の、いわゆるエリートと自認する者たちの幸福感は、ほとんど一〇〇パーセントが優越感で成立しています。大きくは、たとえば発展途上国に対する大国意識、小さくは、となりの家より大きなカラーTVを買う心理。すべてこれ、優越感を満足させているわけです」  レディLの分析を聞きながら、タウンゼントは、やや複雑な光彩を両眼にたたえていた。彼女はそれに気づかなかった。 「あなたは他人とはちがう、その優秀な資質ゆえに特に選ばれたのだ。そう強調しておいて、じっさいにも多少は優遇してやらねばなりませんわね」  レディLは、やや表情をあらためた。 「それでミスター・タウンゼントにお願いがあるのですけど、ハーバードかMITかスタンフォードか、そのあたりの客員教授の座をひとつ用意していただけませんかしら」 「ふむ、それは何とかなると思うが……蜂谷に対する餌かね、それは」 「ご明察ですわね。彼はいま、東京産業大学というユニバーシティーの教授をしておりますけど内心でその地位をきらっています」 「よくないユニバーシティーなのかね。たしかに耳なれん名ではあるが」 「三流ですわ」  冷淡に、レディLは切ってすてた。 「正確に申しますと、二流三流の御用文化人たちに、教授だの助教授だのという肩書をつけてやるために、保守党と財界が資金を出しあってつくった大学です。社会的な評価も低くて、エリート意識のかたまりである蜂谷が、そんなもので満足するはずがありません」 「たとえば、ハーバード大学客員教授なら満足するというわけだな。俗物《スノッブ》が」  侮蔑の笑いが、タウンゼントの口もとを飾った。 「だが、そういう奴らが多いほど、われわれも威をふるえるというものだ。よかろう、それはひきうけた。来月じゅうに席《ポスト》をひとつ用意させる」  そのとき、ボディーガードのひとりが近よって、タウンゼントに耳うちした。尊大そうにタウンゼントはうなずき、レディLを見やった。 「ふたりのドラゴン・キッズも巣へ帰ったようだ。われわれも帰るとしよう。外交官用の車が待っているそうだ」 「今日のところはご満足いただけまして?」 「ふふふ、けっこうなものを見せてもらったよ。屋内野球場の屋根が飛ぶ場面など、そうそう見られるものではないからな」  タウンゼントは立ちあがった。黒服のボディーガードがうやうやしくSVIP室の扉をあけた。 「容器《いれもの》ばかりりっぱにする前に、もうすこしパワーとスピードを身につけるがいい。人類が冥王星に着く前に、日本のベースボールが大リーグに追いつけたら、たいしたものだ」  彼につづいてSVIP室を出るとき、ザルのようになったフレームのむこうに、レディLは夏の夜空を見あげた。 「あの飛行船のサロンに、美しいドラゴンの末裔を招待して、魔都卜ーキョーの夜景を、ともに楽しみたいものだわ」  レディLの視線が、東京上空に浮かぶ銀色の飛行船に固定された。淫蕩《いんとう》な笑みが、肉感的な唇の端から三グラムばかりこぼれて、豊かな胸の上ではじけた。       ㈼  警視庁の機動隊につとめていたころ、奈良原は、こわもての腕力自慢だった。  必死になって鉄パイブやゲバ棒をふりまわす学生運動家など、一〇人たばになっても、奈良原ひとりにかないはしなかった。特殊警棒のただ一本で、たちまち全員を打ちたおしてしまう。それでやめておけばよいものを、抵抗する気もなくなって倒れている学生たちの口に警棒をつっこんでは、歯やあごをたたき割り、さすがに問題になって、退職することになったのだ。  ゆえに、奈良原は、素朴な暴力信仰の徒であったのだが、いまやあわれなものだった。女子トイレのドアに顔をはさまれて気絶し、ようやく意識をとりもどしたときには。竜堂家の三男坊に襟首をつかまれて、ビッグボウルの外へ引きずり出されていたのである。後頭部がこぶだらけになっており、どのようなあつかいを受けたか、身にしみて理解できたのであった。  屋根を失ったビッグボウルを出たものの、終は、さてこれからどちらの方角へ行こうか、とっさに判断がつかなかった。すなおにまっすぐ家に帰ってよいのだろうか。駆けつける兄たちと行きちがいにならないだろうか。それやこれやで、終らしくもなく考えあぐねていると、末っ子の余が、真西の方角を指さした。 「終兄さん、こっちの方角だよ」 「え?」 「始兄さんや続兄さんは、こっちにいる。こっちから、ぼくたちのほうへやってくるよ」  余の声は確信にみちているというより、ごく自然だった。とはいうものの、自分がなぜそういうことを感じるのか、理論的な説明をするのには困難を感じているようだったが。 「……そうか、余、お前、わかるのか。こいつはいい」  終は、余の発言をうたがわなかった。先月には、富士山麓で竜に変身してしまった弟なのだ。いまさらどんな能力をしめしたところで、おどろくには値しない。片手に奈良原の襟首をつかんで、引きおこした。自動車を運転してきたことを確認し、あいかわらずの混乱のなかを、駐車場へ案内させる。奈良原の車は、ガラスが割れ、車体には傷とへこみがついていたが、動かすことができた。終は彼に運転させ、自分と弟は後部座席にすわった。 「何か変なことをやりたければ、やってもいいぜ。そのかわり、シートの後ろから、お前の背中を蹴り破ってやるからな」  ぶっそうな笑いかたを、終はした。 「それで車が事故をおこしたってかまわないさ。死ぬのはお前だけだ。冗談と思うなら思っててかまわないぜ」  思いたかったが、思えない。奈良原は屈伏した。それでなくてさえ、尾てい骨[#「てい」は骨偏に氏に一。これを漢字にすると保存でUNICODEになるので「かな」にする]がずきずき痛んでいるのだ。西へむかい、目白通りにはいるように、との命令を、すなおに受け、車を動かしはじめる。周囲ではクラクションが狂騒曲をかなで、ビッグボウルからほうほうのていで出てきた人波と、やじ馬とで、収拾《しゆうしゆう》がつかない。むりやりのように車を動かすと、警官が飛んできて、何か言いかけた。その鼻先に、奈良原が黒い手帳をつきつけた。 「警察の者だ。いそいでいる。後部座席のふたりは関係者だ。通っていいな?」 「これは失礼しました、どうぞおとおりください」  警官は身をひき。敬礼して、奈良原の車を通してくれた。  奈良原がしめした警祭手帳は、さきほど終にのされてしまった越川警部補のものだった。竜堂家の三男坊は、逃げだすときでも、ただで逃げだしたりはしないのである。警察手帳をしめすにも、一五歳の終や一三歳の余では、信用してもらえるはずがない。だからこそ、わざわざ奈良原を引っぱってきたのである。 「ご苦労さん。それじゃ、あんた自身のために、事故をおこさないよう行ってくれ」  終はくせっ毛で、健康そうに陽に灼《や》けて、両眼には生気ある光が踊っている。長兄の始が甲冑姿が似あうとすれば、三男坊の終には、「水滸伝《すいこでん》」や「三侠五義《さんきょうごぎ》」の武芸者、ないしは孫悟空のコスチュームが似あうかもしれない。とにかく元気で、軽捷《けいしょう》で、明るい活力に富んだ少年だといえそうだった。  奈良原は無言でハンドルを切り、目白通りにはいって、西へと走りだした。もっとも、道路はかなり渋滞《じゅうたい》し、混乱がつづいて、快適な走りにはほど遠いが。  ほぼ同時刻、竜堂家の長男と次男は、猿男こと加瀬に運転させたマイクロバスで、目白通りを水道橋方面へむかっていた。  マイクロバスの座席には、六人の負傷者が乗せられている。こんな連中を、庭に放り出しておくわけにはいかなかったのだ。大きな図体を戦闘服につつんだ粗暴な男たちがひいひいうめいているのは耳ざわりだが、しかたない。わざわざ病院に運んでやるほど親切にもなれなかった。 「七月は東京にとって災難の月らしいですね」  災難の半分くらいをまきちらしている責任者であるくせに、他人ごとのような感想を、続は口にした。彼は運転席のすぐうしろにすわっている。猿男があやしげな行動におよぼそうとしたら、たちどころに報《むく》いをくれてやろうというわけだ。しかも、その殺気をかくそうともしないものだから、猿男はちぢみあがり、ムホン気などおこしようもない。  目白通りの交通事情は、はなはだよくなかった。水道橋一帯の混乱が波及《はきゅう》して、とくに都心方向へむかう車は渋滞に巻きこまれてしまった。いっそ車をおりて走ったほうが早いように思えるのだが、それで人目をひくのも、この際はこまるのだ。  一時間半もかかって、ようやく干登世《ちとせ》橋までたどりついた。明治通りとの立体交差点である。その陸橋の上で、車は完全に停止してしまい、車窓から顔を出した始と終は、二メートルほど離れた対向車線に、兄弟の顔を見出したのだった。 「始兄貴! 続兄貴!」 「よう、元気か、三男坊」  竜堂兄弟は再会した。ついでに、年長組と年少組が、それぞれ捕虜にしたふたりの暴力専門家も、再会することになった。奈良原と加瀬は、よろこびあう竜堂兄弟を横目に、憮然《ぶぜん》とした顔を見あわせて、すぐ視線をはずしあった。おたがい、他人に見せて自慢できる姿ではなかった。  四人兄弟とふたりの捕虜は、車を見すてて渋滞から脱出した。目白通りの陸橋から、低い位置にある明治通リへ、長い階段が伸びている。通行人もとだえたその階段の蔭《かげ》で、二組に分かれていた兄弟たちは情報を交換しあった。そして、それがすむと、ごく当然に事態はすすんで、彼ら兄弟に粗暴な挑戦をしかけてきたふたりの罪人に、どうやって罪をつぐなわせるか、ということになった。 「そうですね、なぐりあいをさせて、勝ったほうだけ助けてやるというのはどうです?」  続の表情も声も、ドライアイスのように冷たく乾いている。半分は演技だが、ずばぬけて秀麗な顔だちの続が言うと。冷酷そのものという印象で、奈良原も加瀬もふるえあがった。猿面をゆがめた加瀬が、身をもんで、竜堂兄弟に哀訴《あいそ》した。 「そ、そんな殺生《せっしょう》な。この身体のでかいのに、私が勝てるわけありません。あんまりひどいことをせんといて下さい」  終が非友好的な目つきで、みぐるしいおとなどもをながめやった。 「何がひどいんだ。甘えるなよ、お前ら。フェアリーランドを炎上させるわ、東京港連絡橋をぶっこわすわ、今晩なんかビッグボウルに穴をあけるし、他人迷惑ってものを考えたらどうだよ、いい年してさ」 「そ、それは全部、君たちが……」 「何だって?」 「いや、はい、私どもが全面的に悪うございました、反省しております」  卑屈を絵に描いて韻縁《がくぶち》をつけたような表情で、加瀬がぺこぺこ頭をさげた。奈良原は半ばそっぽをむいて、加瀬と目をあわせないようにしている。 「それじゃ反省したところで、あなたたちに不愉快な仕事を命じたハイエナどもの正体を教えていただきましょうか」  言葉づかいだけはていねいに、続が、メモ帳とボールペンをとりだした。ご機嫌をとるつもりか、加瀬は協力的で、知るかぎりの人名と地位を並べたて、ためらいつつ奈良原も、藤木健三をはじめとする幾人かの氏名や住所をしゃべらされてしまう。 「よし、わかった。そいつらのうち、ひとりをしめあげて事情を説明させよう」  始がごく簡単にそう結論を出し、弟たちが賛成したとき、奈良原が声をあげた。彼らにやられっぱなしの自分がなさけなくなり、せめて捨てぜりふの一言ぐらいあびせたかったのだ。 「で、できるものならやってみるがいい。世の中を甘く見るんじゃないぞ。ほんとうに力のある者から痛い目にあわされて、はじめてわかるんだ。そのときになって後悔してもおそいぞ」  反応は静かだった。 「お前がぺこぺこ頭をさげていた内閣官房副長官の高林は、いまどこにいる?」  うっとうめいたきり、奈良原は声を出すこともできない。青黒くゆがんだ彼の顔に、始は声を投げつけた。 「わかったか。最後に勝ち残るのはおれたちだ」 「…………」 「万が一そうならないとしても、おれたちがお前らより先に滅びることはありえない。いま神田川の水と泥を二〇リットルばかり飲んで腹を破裂させるか、二度とおれたちの前に姿をあらわさず、遠くでそれなりに幸福になるか、どちらでも好きなほうを選べ」  大きい声ではない。いたけだかでもない。だが一言一旬が、重く鋭い打撃を奈良原と加瀬の心臓に打ちこんでくる。格の差というものが実在することを、奈良原は思い知った。 「わ、わかった。わかりました。東京を離れてどこか遠くで幸福になります……」       ㈽  日本兵器産業連盟の事務局長である藤木健三民の邸宅は、新宿区下落合にあって、四〇〇坪の敷地を持っている。経済超大国日本で、産軍複合体の中核にすわる男としては、むしろささやかであるかもしれない。桜の名所である公園に隣接し、緑の多い住宅地のただなかだ。  暗い公園のなかに、竜堂兄弟は立っていた。高さ二三〇センチの石塀をへだてて、藤木家の邸宅が静まりかえっている。石塀の高さは何でもないことだが、塀の上に赤外線が走っているのがわかった。 「これじゃうかつに塀はこせないぜ、どうする、兄貴たち?」 「はい、手袋」 「…………」 「あの猿男の車に乗ってきた連中がはめていたんですよ」 「で、これでどうしろっていうのさ」 「むろん、塀の下を掘って、屋敷のなかにはいるんです。さっさと掘りましょう。人が来るとまずいですよ」 「ちえっ、花の高校一年生が、夏の夜中にディスコにも行かず、何だって住宅地で穴ほりしなきゃならないんだよ。文部省が教育を荒廃させたから、いたいけな一〇代がこんな目にあうんだ」  不平を鳴らしながらも、終の手は、猛然と土を掘りかえしにかかった。  竜堂家の兄弟たちが、ひとりを除いて未成年の身で深夜労働にはげんでいる間、邸宅の主人は、べつの作業にいそがしかった。妻と娘をニュージーランドへのスキー旅行に送り出したあと、藤木健三は麻布学院の女子大学生を家にひっぱりこみ、寝室でせっせと身体を動かしていたのだ。 「おさかんで、けっこうなことだな」  ふいに人声が頭上から降りそそぎ、藤木はぎょっとして侵入者の高い影を見あげた。 「な、何だ、きさまらは?」  わめいて、警備保障会社に頁通するセキュリティ・システムのスイッチを押そうとする。だが、泥だらけの手袋がその顔にたたきつけられていた。頬がしびれ、鼻血を噴き出して、藤木の裸体はキングサイズのベッドから床へ転落した。  藤木と岡衾《どうきん》していた女子大生は、金切声をあげようと口を全開させたが、「失礼」とつぶやいた続が手を伸ばして。彼女の頸動脈を指先でおさえると、あっけなく失神してしまう。その身体に、始が毛布をかぶせた。 「パンツぐらいおはきなさい、エロ中年」  侮蔑《ぶべつ》の色もあらわに、続が、裸の男にすすめた。 「終君と余君は見ないように。情操教育に害があります」  債怒の形相で。藤木はパンツをはいた。 [#天野版挿絵 ] 「きさまら、わかってるのか。私はきさまらと身分がちがうんだ。に、日本を支配するパワー・エリートだぞ。こんなことをして、無事にすむと思っているのか!」 「船津老人もそう言ってたよ」  嘘である、というより、外交技術というべきだろう。始の短い一言で、藤木の舌は、ぴたりと回転をとめてしまった。両眼に浮かんだ恐怖の色が、急速に濃くなりまさる。  室内に、甘い香りがただよっている。サイドボードの上にアルコールランプが置かれ、そのなかで「夜間飛行」の香水が燃えていた。寝室にムードを出すための小道具である。女子大生の知恵だが、アイデアを出した当人は、失神して白眼で天井を見あげている。  藤木は声をふるわせつつも、さらにどなった。 「わ、私は愛国者だ。国を愛しているからこそ、国を守るための兵器をつくっているのだ。国を愛して何が悪い!」 「顔が悪い」  すかさず終が言い、余が笑いだした。少年たちの非礼さに、藤木は、憤然としたが、パンツひとつの裸では、怒ってみせても品格《ひんかく》も迫力もありはしない。始は、視線を動かして室内を見わたした。 「愛国業ってのは、よっぱどもうかる商売らしいな」  寝室にかざられた日本画や陶磁器の類《たぐい》が、建売住宅一軒よりも高価なものであることを、始は知っていた。 「それに、女子大生をひと晩いくらで買うことが、愛国心とどんな関係があるんだ」 「か、買ったのではない。自由恋愛だ」 「目をあけて寝言《ねごと》をいうとは器用な人ですね。どうやら完全に目をさまさせてあげる必要がありそうですが、いいですか、兄さん」  長兄がうなずくのを見ると、続は、終と余に、何か低声《こごえ》で命じた。三男坊と末っ子は、愉快そうに顔を見あわせると、寝室から廊下へとびだしていった。 「すこし待っていて下さい。弟たちが道具[#「道具」に傍点]をとってきますからね」 「ご、拷問する気か」 「あなたみたいな薄ぎたない中年を拷問したって、おもしろくも何ともありませんね」  ひややかに続が言い返したとき、寝室のドアがひらいて、終と余が帰ってきた。 「持ってきたぜ、兄貴。重くはなかったけど、ちょっとかさばってたな」 「ご苦労、そこへ置いてくれ」  藤木は声のかわりに左右の眼球を飛び出させた。耐火金庫は、二トンもある鋼鉄製で、およそ人力で動かせるようなものではないのだ。それを、とくにたくましいともみえない少年ふたりが、空《から》のスーツケースをあつかうように、軽々と運んできて、床に置いたのである。これで充分、胆をつぶしたのに、さらに少年たちは金庫の扉を思いきり引っぱり、鍵《キー》をはじけ飛ばせて、それをあけてしまったのである。腰をぬかし、反抗の気力を失った藤木の前で、金庫のなかみが、床につみあげられていった。一〇○万円の札束が六〇もある。日本やアメリカの国債《こくさい》があり、株券がある。預金通帳があり、不動産の権利書がある。宝石類やら南アフリカの金貨やら、たいへんなものであった。 「終、余、これからちょっとばかり豪華なたき火をやるぞ。スプリンクラーの機能は切ってあるな?」 「ばっちりさ」 「それじゃ、まず現金からだ。つぎに国債と株券。そのつぎに預金通帳の順序でいくぞ」 「ええと、不動産の権利書はどうしよう」 「じゃ、現金のつぎにそれを放りこめ」  耐火金庫が、ひらいた扉口を上にして寝室の中央に置かれた。札束のひとつに、アルコールランプの火がつけられ、金庫に放りこまれる。つぎつぎと札束が投げこまれ、はでに炎が燃えあがった。天井が高いので、火事になる心配はないが、赤とオレンジの炎は、一秒ごとに数百万円をのみこんでいく。 「さあ、どうします。ぼくたちの質問に答えなければ、全部焼いてしまいますよ」 「ま、待て、待ってくれ」  ついに藤木は屈服した。彼の眼前で、六〇〇〇万円の札束が灰になり、下落合の本邸、南青山のマンション、蓼科《たてしな》の別荘、熱海のリゾートマンションなどの権利書がつぎに火中に放りこまれようとしたときである。  汗をかきながら、藤木は、フェアリーランドその他の事件に自分が関与していたことを認めた。自分の仲間や敵についても知るかぎりのことを語った。彼の告白のすべては、カセットテープに録音された。これは藤木が女子大生との情事を録音するために用意しておいたものであった。 「もうこれ以上、尋ねることはありませんか、兄さん?」  なし、という返事を受けると、続はうなずき、残りの札束、国債、不動産権利書、株券、預金通帳などを、まとめて金庫に放りこんだ。時価数十億円の炎が大きく燃えあがる。藤木はパンツ一枚だけの姿でとびあがり、顔じゅうを口にしてわめいた。 「約束がちがうぞ! 嘘つき!」 「どうちがうんです? 話さなければ焼く、とは言いましたが、話したら焼かない、と言ったおぼえはありませんよ」 「ひ、ひどい、あんまりだ……」  藤木の顔は灰色に変色し、舌を出してあえいだ。兵器産業連盟の実権者として巨大な粗織をあやつり、巨額の資金を動かしてきた切れ者のおもかげは、どこにもない。燃えあがる炎を、絶望の目でながめやるだけである。  やがて四人は、玄関から堂々と、藤木家を出ていった。門をあけながら終が言った。 「目の前で全財産を燃やされたんだ、ショックで心臓マヒなんぞおこさなきゃいいけど」 「心配してやる必要はない。あいつにはまだ宝石やら金塊やらが残っている。夫婦して、けっこう豊かな老後が送れるはずだ」  こうして、人間の形をした嵐が去った後、下落合の藤木家では、時価六〇億円の灰を前にして、「兵器産業界の政治部長」と呼ばれた男が、一度に一〇歳も老《ふ》けこんだような顔を、よだれだらけにして気絶していた。  夜明けがま近い目白通りを、四人兄弟はぶらぶら歩いていったが、背の高い長兄に半ばぶらさがるようにして歩いていた余が、ふいに話しかけた。 「ねえ、兄さん、さっきのお金銭《かね》だけど……」 「あれがどうした?」 「燃やしちゃったけど、考えたらもったいないね。社会福祉施設か何かに寄付したほうがよかったかしら」 「うん、おれもそう思ったけどね、余、あいつらは権力を持ってるから、どこの社会福祉施設に寄付がいったか調べて、とりあげてしまうだろう。もっとひどいいやがらせをしたかもしれない。だからやっぱり、燃やすしかなかったと思うよ」 「うん、そうだね、きっと……」  残念そうにうなずく余の肩を、終がたたいた。 「兄貴たちのやることだ、ちゃんと考えてあるさ。それにさ、かわいい弟たちが、起きっぱなしで腹がへってるってことも。ちゃんと考えてあるにちがいないよ」  そんなことを終が言ったのも、二四時間営業のファミリーレストランの灯が見えたからである。  くすり、と、続が笑った。 「ええ、ちゃんと考えてありますよ。終君にわたしたこづかいが、まだ半分以上残っていることもね。先にごちそうさまといっておきましょう」 「世紀末だなあ。兄が弟にたかるっていうんだから」  三男坊はぼやいた。       ㈿  頭をおさえつける相手がいなくなって、上機嫌になるのは、小学生も政治家も同じである。日本国首相は、この年、きわめて快適な夏を迎えていた。  第二次大戦後、歴代の首相は、「鎌倉の御前《ごぜん》」こと船津《ふなづ》忠巌《ただよし》老人の好意をえることに、心をくだかねばならなかった。老人が「まあよかろう」といえば、保守党内の支持をえて首相になれたし、「あいつはだめだ」といえば、敗者として首相官邸を去らねばならなかった。  現在の首相は、巨額な金銭《かね》と、必死の政治工作とを用いて、内閣首班の座を手に入れたのだが、船津忠巌の彼に対する評価はきわめて低く、いつ首を飛ばされるかわかったものではなかった。「あれはせいぜい県会議員がつとまるていどの無学者だ」と老人にいわれ、それは事実であったから反論もできなかったのだが、そのうっとうしい、おそるべき老人が消えさってしまったのだ。首相はへんにはしゃぎだし、頭《ず》が高くなった。 「私立大学しか卒業できなかったくせに、何をえらそうに。鎌倉の御前がご健在のときには、へこへこ卑屈に腰をまげていたくせして」  とくに東大出身の秀才官僚のなかには、そう思って苦《にが》りきる者もいた。だが、彼らも、死者の威を借りて生者の権勢にはむかうわけにはいかなかった。今度は彼らがへこへこ頭を下げる番であった。  ほんとうは、首相は上機嫌でばかりはいられなかったはずである。この月二二日にはウォーターフロントの大混乱、二四日にはビッグボウルの大騒動で、あわせて一万人以上の死傷者が出るわ、損害額は一〇〇〇億円をこすわ、なのだ。それでも、大事件をいくつもかかえたマスコミは狂喜して、首相にまで批判のペン先を伸ばすこともなく、さしあたり、ヘルメット姿で災害現場を見まわる首相は、奇妙に上機嫌であるのだった。  小人《しょうじん》は小功におごり、小幸を喜ぶ……。  巨大な医薬コンツェルンの専制君主である田母沢篤氏は、七月二五日午後、奇妙な客の訪問を受けた。  田母沢の邸宅は、小金井市にあるが、ふだんは港区|元麻布《もとあざぶ》の8LDKの高級マンションで生活している。そして田母沢コンツェルンの本拠地は、やはり港区の虎ノ門三丁目にあるビルであり、そこの一〇階に、「オーナー」と呼ばれる田母沢の執務室があった。  執務室は、二〇畳ほどの広さで、家具調度はノルウェー製に統一されている。執務室の奥には、床の間がついた一〇畳の和室、檜《ひのき》の浴槽がついた浴室などがあって、気がむいたときには、そこに泊まることもある。 「女? 若くて美人だというのか。ふむ、まあよろしい、通せ」  こうして田母沢の前にあらわれたのは、マリガン国際財団・東京赤坂分室長のバトリシア・S・ランズデール、通称レディLであった。 「ドクター・タモザワ?」 「そうじゃが、あんたはどなたかな」  どなた、などと呼びかけるのは、田母沢としては、最大級の礼儀である。だが、秘書を介して先にわたされた名刺を無視して、そのように問いかけたのは、この老人の意地悪さであった。  田母沢の視線は、なめくじのように、レディLの全身をなめまわしている。生理的な不快感が、レディLの背筋《せすじ》をエレベーターのように上下したが、彼女は平静をよそおった。「旧満州《マンチュリア》のドクター・タモザワ」がどのような趣味を持っているか、レディLはよく知っていた。生体解刮と拷問にこの上ない快楽をおぼえる変質者だ。  ようやく田母沢は客に椅子をすすめた。 「では、お話にはいらせていただきます」  レディLの日本語は正確だった。国営放送の非人間的な女性アナウンサーを思わせるところはあったが、文法でも、イントネーションでも、おかしな点はない。 「竜堂兄弟の身柄に、ずいぶんとご執心だとうかがいました。それでぜひ、わたしどもに協力ねがいたいと存じまして……」 「はて、何のことかな」  独創性がまったくないとぼけかたを、田母沢はした。レディLの予想の範囲内にあることだった。 「おかくしになる必要はありませんことよ。ドクターのご経歴は、奥さま以上に存じあげておりますから。旧満州では、お手ずから数十人の男女を生体解剖なさったとか」 「昔のことさ、すべて昔のことだ」 「では。現在やっていらっしゃることを、すこし申しあげることにしましょうか」  レディLの目が底光りした。気押されたように、田母沢は視線をそらせ、飾棚におかれた李朝《りちょう》の壺を見やった。 「まず、輸入血液製剤に関する巨額の利権を守るため、国産の血液製材研究に圧力をかけ、その認可を遅らせた。三年前のことです。これによって、性行為によらずしてエイズに感染し死亡した人は五〇〇人をこしますわね」 「そうかね、初耳じゃな」  田母沢は薄笑った。 「つぎに、フィリピン人を密入国させて、彼らを原子力発電所のもっとも危険な作業に、安い報酬で従事させ。そのデータを集計してますね。フィリピンに帰ってから白血病やガンで死亡した者は、すでに一五〇人に達しています」 「フィリピン人は貧乏で栄養が悪いから、早死するんじゃ。わしの知ったことか」  すさまじいほど、他の国の人を侮辱する台詞《せりふ》を、田母沢は吐きだした。自分がおこなった悪業のかずかずを、反省も後悔もしてはいない。それでも、他人に指摘されるのは不愉快とみえて、ニコチンがしみついた黄色い歯をむきだしてみせた。 「三文作家のように妄想力がたくましいご婦人じゃ。わしは自分の過去と現在とに、愛国者として、医学者として誇りをいだいておる。それを傷つける者には、実力で反省を求めることもあるのだがな」  レディLは動じなかった。 「そうしたければ、そうなさい。ただし、わたしが四時までにこの建物から無事な姿で出ないと、駐日アメリカ大使が日本国政府に、相応の処置を求めることになります。国民やジャーナリズムなど恐れない日本政府も、アメリカ政府を怒らせるのはさけたいでしょう」  田母沢は舌うちした。 「日本を属国視しおって!」  そのあとがつづかず、狡滑そうに上目づかいをした。レディLがアメリカ政府にとって重要な存在であることを知らされ。その意味をかみしめているのだ。食用蛙めいた顔に、打算の数式がちらつくのを確認して、レディLは内心で冷笑した。 「ふん、すると何かね。あんたはアメリカ政府、ないし軍部の関係者で、わしの知識と経験を必要としとる、と、こういうことかね」 「ええ、そう釈《と》っていただいてけっこうです」 「ふん、やっぱりな。粗雑なヤンキーなどに、生物兵器などあつかえんというのじゃ。わしか軍神|岩井《いわい》中将閣下が指揮していれば、エイズ・ウィルスを外部にもらしたりするものか」 「エイズ・ウィルスはアメリカ軍の生物兵器だとおっしゃるんですか?」 「それ以外に、どう考えようがあるというんじゃ。アフリカの奥地からいきなりニューヨークへ伝播《でんば》してすさまじく繁殖する、それも自然に、などと、IQ50以上の人間なら、とうてい信じられるものではないわ」  大声で田母沢は笑った。笑声まで食用蛙に似ている。食用蛙と田母沢との間に差があるとすれば、田母沢は煮ても焼いても食えない、ということだろう。やがて、打算の方程式が完成したようである。田母沢は笑いをおさめた。 「日本とアメリカは、共産主義者どもの陰謀をうちくだき、世界平和のために手をとりあわねばならん。それにわしが協力できるとすれば、よろこんで役に立たせてもらおう」  レディLは調子をあわせた。 「竜堂家の兄弟は、世界平和の重要な素子《そし》となりえます。だからこそ、ドクターに協力をお願い申しあげたのです」 「で、あの孺子《こぞう》どもを、わしに解剖させてくれるのじゃな」  たちどころに本音をもらす田母沢だった。 「あくまでも研究のためですわ、ドクター。解剖によって彼らの肉体的な力、あるいは肉体をこえたカの根源を知ること。それが目的で、それこそがはたされなくてはなりません」 「ふん、よかろう。知りたいことがあれば、何でも教えてやる。だが、これだけはいうておくぞ。あの孺子どもの身体に。他人がメスを入れることは絶対に許さん」 「わたしたちとしましても、ドクターがものの順序さえご承知なら、すべてをおまかせします」  内心の、汚物をなすりつけられるような不快感に耐えて、レディLは微笑してみせた。高価な英国製スーツを着こんだ食用蛙が、生体解剖への渇望《かつぼう》で咽喉《のど》を鳴らしている。 「だが、安心して奴らを解剖できる場所があるかね。あまり山奥ではこまるし、マスコミのなかのお調子者にかぎつけられてもこまる」 「ご心配なく。日本政府がけっして手を出せない場所が、東京のすぐ近くにあります」 「はて、どこじゃろう」 「広くて治外法権の場所ですわ」  その一言で、田母沢は思いあたったようであった。 「……そうか、横田の米軍基地か。なるほど、あそこなら誰も手が出せん」  大きくうなずいた田母沢の、突きでた腹が揺れた。急速に現実化しつつある欲望が、そこに貯蔵されているようであった。 「ええ、横田基地です。世界広しといえども、一国の首都に、他国の核兵器が貯蔵されているのは、偉大なるトーキョー・シティだけですわ。大半の日本人は、そんなこと気にとめてもいないでしょうけどね」  レディLは、皮肉をこめてそう言ってみたが、田母沢は機械的なうなずきを返すだけである。もはや目前の客のことなど半ば忘れて、生体解刮の妄想に夢中になっているのだ。 「つくづく愚かな男だこと! でも、だからこそ、使いすてにできるというものだわ」  そう内心でつぶやきつつ、レディLは、つぎに打つべき策《て》を考えていた。 [#改ページ] 第七章 夢見る者さまざま       ㈵  警視庁刑事部理事官の虹川耕平《にじかわこうへい》と、国民新聞資料室次長の蜃海《しんかい》三郎とが、一〇年ぶりに再会したのは、七月三〇日のことである。  彼らが会った場所は、銀座三丁目の古くさい名曲喫茶で、彼らが奥のボックス席にむかいあって腰をおろしたとき、スメタナがかかっていた。 「いや、おひさしぶり」 「ごぶさたでしたな。おたがいに、まだ免職《くび》になっていないようでめでたいかぎりだ」  にやりと笑いあう。たがいに組織のなかで主流ではないことを承知しているのだった。ふたりともアイスコーヒーを注文する。 「で、何だってお前さんが新聞記者とは名ばかりの男と旧交をむしかえす気になったんだ」 「刑事部長の要請でな」 「刑事部長というと……」 「そう。南村のおっさんさ」 「ほう、そうか。おれは南村のおっさんが、きらいじゃない。まあ出世しないタイプではあるがな。そもそもエリート警察官僚って柄じゃない」 「部長は、街のおまわりさんや村の駐在さんの総もとじめになりたかったのさ。ところが、警察の実態はそうじゃなかった。先進国首脳会議《サミット》のときの警備ぶりは横暴をきわめたし、それでなくとも、公安の専横《せんおう》には、つねづね頭にきてるわけで」 「あんたには悪いがね、虹川さんよ、軍人とか警官とか、制服を着た達中がいばってる国は、近代国家とはいえないよ。日本はどうも年々、逆近代化してるぜ」  虹川はうなずいた。否定する気はまったくなかった。ここ何年も、一般市民の「感じが悪い役所」のアンケートで、警察が断然トップになっている。 「ところで、南村のおっさんが、おれに申しつけたのはな、共和学院院長一家殺人事件のことだ。あれは前任の刑事部長が辞任して、一件落着になったが、南村のおっさんは釈然《しゃくぜん》としていない。おれも同様だがね」 「たしかにな……」  窓ぎわ記者はうなずいた。 「あれはとにかく妙な事件だったな。一家が皆殺しにされた、と、警察が正式発表したあとで、一家が無事にあらわれたんだから。あれはすべて公安のシナリオで、刑事部は表面に立って犠牲になったわけだろう?」 「そんなところだ。だとしても公安がそんな事件をでっちあげた理由が問題だが、お前さんたちマスコミがまた、いっこうに追求しようとしなかったな」 「マスコミにも弱みがあったからな。警察の発表をうのみにして、独自に裏づけ調査するでもなく、とんでもない虚報を発表しちまった」 「警視庁では、いちおう刑事部長の首が飛んだ。ところがマスコミ界じゃ誰ひとり責任をとらなかった。発表した警察が悪い、自分たちに罪はないってわけだ」  虹川はアイスコーヒーのストローをくわえた。 「そんな理屈が通るなら、マスコミなんぞ必要ない。警察の広報課さえあればいいし、広報は無料《ただ》だぜ」  虹川の皮肉に、蜃海は無言で肩をすぼめた。二九歳という年齢よりやや老《ふ》けて見える。顔の彫りは深いが、たいして美男子というわけではない。中背でやせている。これに対し、虹川は、大男の部類に属するが、童顔で、年齢より若く見える。 「一般諭はおいといて、われらが母校のことだ。おれは最初。南村のおっさんをおさえようと思ったんだが、おっさん、どうやら公安と対立してもかまわんという腹らしいし、おれとしても他人ごとですませるわけにはいかんしな。協力してくれるか」 「いずれにしても、共和学院OBとしては、いささかならず気になるところだな。わかった、おれもできるだけのことはしてみよう。あまり過大に期待されてもこまるが……」  虹川と蜃海《しんかい》は、一七年前に共和学院中等科に同期入学した仲である。そのまま蜃海は、高等科から大学へと進んだが、虹川は中等科を卒業するとべつの高校へ進学し、国立大学を卒業した。だからこそ警察にはいれたので、共和学院大学の卒業者であったら、おそらく試験に合格しなかったであろう。ことに上級職を受ける者に対して、警察の思想調査はきびしくおこなわれるのだ。  アイスコーヒーのおかわりを注文して、蜃海が脚を組んだ。 「しかしまあ、事件《こと》の多い夏だ。マスコミにとっちゃありがたいがね」 「えらい大さわぎがつづいたからな。湾岸道路は完全にぶっこわれて秋までは使えないというし、フェアリーランドも大損害だろう」 「フェアリーランドはすべて保険で損害をまかなえるさ。ウォーターフロントの大騒動だって、建設業界はむしろ大よろこびだし、建設業界と首相の蜜月ぶりは有名だからな。しかも、真相はともかく、表むきには某国工作員と過激派のしわざってことになって、日本の国内じゃ、ほとんど誰も傷つかないようになってやがる。よくできてるぜ」  蜃海の指摘《してき》は、皮肉っぽいが、的をはずしてはいなかった。首相は、「外交には無知、財政には無力、経済には無能、文化には無関心」といわれる人物だが、利権あさりと私財蓄積にかけては名人だった。とくに建設省と郵政省がからむ利権は、ほとんど彼と彼の派閥が独占している。  そういったことを、外国の通信社は報道するが、日本の新聞社やTV局は、ほとんど報道しない。何代か前の首租が、不正な手段による蓄財を雑誌ジャーナリズムから指摘されたとき、ある大新聞の政治部記者は、恥知らずにもつぎのように言った。「ふん、そのくらいとっくに知っていたさ。書くのはやぼだから書かなかっただけだ」それから二〇年以上たって、事態はますます悪化している。 「政治部の記者なんて、半分、政治屋どもの私設秘書みたいなものだ。ごちそうになったり、こづかいをもらったりして、相手につごうの悪いことはいっさい書かない」 「まったくそのとおりさ。で、そこまでわかっていながら、国民新聞社はなぜそういう内情を記事にしない?」 「するわけないさ。発行部数一〇〇〇万部、西側世界一の御用新聞だぜ、わが社は」  蜃海は唇をゆがめてみせた。以前はそうでもなかったが、一九八○年代にはいってから、国民新聞はまったく政府べったりの御用新聞になってしまい、与党が選挙で負けると、「日本の社会は衆愚《しゅうぐ》政治化しつつある」と書きたてるありさまだった。  さらには、国民新聞本社ビルの件がある。このビルは、干代田区丸の内に地上二〇階の偉容を誇っているが、それが建っている土地は、もともと国有地だった。それを、政府は、時価よりはるかに安い値段で、国民新聞社に払いさげたのである。法律的にも道徳的にも、きわめておかしなことだったが、当事者以外のジャーナリズムも沈黙していた。 「まったく腐ってるな、蜃海さんよ」 「そうさ、上からまんなかへんまで、のきなみ腐ってやがる。与党も野党も財界もジャーナリズムも。そのくせ経済力は世界一で、街には物があふれてる。こいつはどうみたって、世界の構造それ自体が、よっぽど甘くできているとしか思えんな」  現在、国民新聞社は、大さわぎである。国民新聞社が経営するプロ野球チームは、水道橋のビッグボウルを本拠地としていたが、そのビッグボウルがつぶれてしまったので、今後の試合をどうするか、てんやわんやなのだ。内心で、蜃海《しんかい》は、ざまをみろ、と思っている。  虹川が両脚を組みかえた。 「北アジア文化地理研究会という団体があるんだがね、知ってるか、蜃海さんよ」 「知ってる。警察庁の外郭団体、というより、公安のダミーさ。公安が盗聴やら不法侵入やらのためにアジトが必要なとき、北アジア文化地理研究会という名前でアジトやレンタカーを確保してるんだろう。それがどうした?」 「その北アジア文化地理研究会とやらいう、たいそうなお名前の団体が、どうやら活動停止に追いこまれているらしい」 「公安が自粛したとも思えんが……」 「職員のほとんどが入院加療中だとさ」  小気味よさそうに虹川は笑った。蜃海も笑いかけて、急にまじめな顔つきになる。 「いかん、忘れていた。おれの甥《おい》から、以前ちょっと妙なことを聞いていたんだ。お前さんに話しておいたがよかろう」 「お前さんの甥というと?」 「国立大学の受験生だ」 「ああ、かわいそうに、文部官僚の生きたおもちゃか。毎年毎年、受験法を変えられては、なぶりものにされている」 「ま、そういうわけだ」  肩をすくめて、蜃海は話をつづけた。 「……で、その甥が、妙なことを知らせてきたんだ。甥の妹、つまりおれの姪《めい》だがね、これは共和学院高等科の一年生なんだが、この春、妙な事件に巻きこまれたらしい。麻田っていうんだが。何か、例の古田代議士の家にさらわれたとか……」  蜃海がひととおりのことを話しおわると、虹川はうそ寒そうに首をすくめた。冷房のせいだけではなかった。 「らしい、らしいの連続で、なさけない話ではあるな。とにかく、おれたちが知りようもないところで、何かが動いている。おれたちが本来、近づきたくもないことがな」  ふたりは沈黙し、それぞれの考えに沈んだ。たっぷり一〇分ほどたって、彼らは今後それぞれの情報を密に交換しあうことを約し、喫茶店を出た。むろん勘定はそれぞれで支払った。外へ出ると、強烈な陽ざしが視界を灼《や》いて、彼らの顔をしかめさせた。めずらしく青い空に、銀色の飛行船が音もなく浮かんでいる。 「飛行船か、のんびりしてていいな」 「ジェット機ってやつは味気なくていかん。飛行船とか気球のほうが、おれは好きだ」  何気なくそんな台詞《せりふ》をかわしあうと、虹川と蜃海は、かるく目礼しあって、それぞれの職場へもどっていった。       ㈼  猿男こと加瀬の無法な侵入以来、竜堂家は平穏をたもっていた。あるいは形だけのことかもしれなかったが、とにかく銃や刀と縁がないのは、けっこうなことである。  書斎で、祖父の遺稿《いこう》を整理している始のところへ、続が麦茶を運んできた。 「日本のジャーナリズムの主流が、事件の表層《ひょうそう》しか追わなくなって長いことたちますが、こういうときには助かりますね」 「助かるが、しかし、なさけない話だな」  憮然として始はつぶやき、グラスにうかんだ氷ごと、麦茶をひと息で飲みほした。  この国では、政治ジャーナリズムまで芸能レポーターの水準にまで堕ちてしまっている。水滸伝の時代にも似ているが、ローマ帝国の末期にも似ている。自分たちの国でとれるわけでもないのに食料はありあまり、人は刺激を求めて闘技場《コロッセウム》に押しかける。絶対安全な場所から、剣闘士の殺しあいを見て手をたたく。ローマとちがって現代日本には闘技場はないから、事故のとぎの死体写真でしぶしぶ満足する。他者に対する残忍な攻撃衝動は、教育の世界で顕在《けんざい》化し、子供どうしがいじめあい、教師はヒステリックな体罰を行使して子供をなぐり殺す。まともな社会ではない。  だが、そんな社会批評をやっていてもきりがないから、始は、つかのまの平穏な時間に、自分たち自身のことを考えようと思っているのだった。  余から、もっともあたらしい夢の内容を聞いて、始が最初に思いうかべたのは、「淮南子《えなんじ》」という本にある「嫦娥《こうが》」の伝説である。「じょうが」とも呼ばれるが、中国で最初の世襲王朝「夏《か》」の時代にいたとされる女性だ。彼女の夫を|后げい《こうげい》[#「げい」は羽の下に升の最初の斜めが無い形。UNICODEになるのでかなにする]といい、豪勇にして貪欲《どんよく》な男で、王を殺し、反対者を滅ぼし、非道のかぎりをつくした。  夫に愛想をつかした嫦娥は、不老不死をもたらす西王母《せいおうぼ》の秘薬を飲んだ。すると身は羽毛より軽くなって、空へ舞いあがり、月へと去ってしまった。  月には嫦娥が住む月宮なるものがあるという。余の夢では、夜空に浮かぶ地球の姿が見えたという。大きさを問うと、地球から見る月より、三倍か四倍は大きかったという答であった。とすれば、まさに、月から見た地球であるにちがいない。  続が冗談とも本気ともつかず言った。 「すると、兄さん、じつは竜宮城は月にあった、ということになりますかね。四海竜王がいる以上、そこは竜宮城であるはずですから」 「話が宇宙レベルになってきたな。ちょっとこう、足を地につけて考えたいね」  始としては、あらゆる可能性を考えなくてはならない。夢をすべて霊界なり天界なりからのお告げであると考えるほど、始は素朴、あるいは単純ではなかった。さまざまな知識や情報が、余の意識下で混線して、一篇の幻想詩をつくりあげたかもしれないのだから。  さらにもうひとつの注目すべき点がある。余の夢のなかで、四海竜王たちはひとつの珠《たま》をかこんで何か話しあっていたという。  つまり、船津老人が生前に関心を持っていた「竜珠《りゅうじゅ》」とは、四人が囲んでいたその珠のことなのだろうか。それはどのような力を持っているのか。あるいは何を象徴しているのか。そしてそれが実在するとすれば、どこにあるのか。  船津老人は、それが気象と気候を制御するシステムである、というようなことを語っていた。はたしてそうだろうか。べつに考えられることは、それが超常的なエネルギーを制御する、あるいは増幅するシステムである、ということだ。それとも、巨額の財宝や先史文明の科学的遺産をしめす立体地図であるとか……まさか!  万事につけてそうなのだが、正確に判断する材料がすくなすぎる。ここで想像ばかり先走らせても、正しい解答からは遠ざかるばかりだろう。ほどほどにしておくべきかもしれない。  それにしても……。  結局のところ、やはり自分たち兄弟は、人間以外[#「以外」に傍点]の存在ということになるわけだろうか。  それが恐怖や嫌悪である、というわけではない。事実であるとすれば。苦しんでも悩んでもしかたがないことである。生まれたのも、ふつうの人間たちとちがうことも、始たちの意思でもなく責任でもない。だが、生まれて生きているからには、生きる権利があり、無法な人権侵害から身を守る権利があるはずだった。  生きて、そして何かをする権利が、竜堂兄弟にはある。何かをする? 何をする? 何をおこなうべきか。これは深刻な疑問だった。今年の春以来、下衆《げす》な権力亡者や暴力信仰者をずいぶんとたたきつぶしてきた。それによって末弟の余が潜在能力を爆発させるという事態が生じた。これは彼らの人生における里程標《りていひょう》のひとつであるのだろうか……。  これとはべつに、もうひとつ、始と続が考慮すべきことがあった。  藤木がもらした言葉の中で、「四人姉妹《フォー・シスターズ》」という単語が、始の記憶にひっかかっている。それはアメリカの政界・財界・軍部を支配する大財閥の名だ、という。アメリカを支配するということは、つまるところ、世界を支配するということだ。  始と続は、藤木の話をもとに、何冊かの本を買い、資料を集めた。あるていどの事実は、つねに、公表された資料からわかるものである。「四人姉妹」と称される四大財閥とは、つぎの四家族のことであった。  ロックフォード。マリガン。ミューロン。デュパン。四家の頭文字をとって、|RMMD《アールダブルエムディー》連合とも呼ばれる。その支配する分野は、銀行・石油・原子力・軍需産業・食糧・コンピューター・自動車・電話、各分野の九○パーセントにおよび、さらに鉄道・新聞・不動産・鉱山・TV・映画・医薬品・衣服・土木建設など産業のすべて[#「すべて」に傍点]の範囲におよんでいる。その富はアメリカ全体の過半数を制する。  アメリカの財界にはこの四大財閥の他に、四つの巨大なグループがある。だがこれは、四大財閥にくらべれば小さなものだ。  ニューヨーク・グループ、中西部グループ、カリフォルニア・グループ、テキサス・グループがそれである。これらのグループには、一〇億ドル級の大富豪や一〇〇億ドル級の大企業がいくらでも存在するが、四大財閥に比べれば、その勢力は第二義的なものであり、いわば地方王国であるにすぎない。四大財閥に許可をもらって、それぞれの地方や分野で半独立状態をたもっているにすぎないのだ。  四大財閥RMMD連合は、二〇世紀のアメリカ合衆国大統領の全員[#「全員」に傍点]を支配下に置いていた。その支配に抵抗する者は排除された。ケネディ大統領がそうであり。黒人人権運動指導者キング牧師がそうであるという。さらに、原子力発電反対派に対する弾圧や謀殺もすさまじく、「シルクウッド事件」と呼ばれる謎の殺人事件もおきている。  四大財閥=四人姉妹=RMMD連合の手は、むろんアメリカ合衆国の外にも伸びている。英国およびフランスにまたがるユダヤ系財閥ロスシールド、ドイツの軍需財閥クナップなどは、四大財閥を宗主とあおぐパートナーだ。  南アフリカのリッペンハイマー財閥は、全世界のダイヤモンドの七〇パーセント、黄金の三五パーセント、ウランおよびコバルトの二五パーセントを独占支配する。この大財閥も、四人姉妹の弟分でしかない。  日本が経済大国とか技術大国とか自称していばりかえっても、その繁栄をささえるためには、石油と希少金属《レアメタル》とが絶対に必要である。そして、石油を産出するアラブ湾岸諸国と、希少金属の宝庫である南アフリカとは。ともに「四人姉妹《フォー・シスターズ》」の支配下にあるのだ。  戦前の冒険小説風にいえば、「おそるべし! 四人姉妹!」なのである。 「しかし、まるでぴん[#「ぴん」に傍点]とこない話だな」  続を見やって、始は苦笑した。わが家の固定資産税を支払うにさえ四苦八苦している身では、一〇〇億ドルがどうのといわれても実感がない。 「その四人姉妹が日本に乗りこんできた、というのは、日本を間接支配するだけであきたりず、直接支配しようということでしょうか」 「船津老人が死んだ。そのあたりがポイントだろう。藤木の証言も、ちょっと断片的すぎたが、要するに、権力社会内部の暗闘が本格的になりつつあるということだろうな」  そのとき、廊下から歌声が流れこんできた。   ラドンはよろこび空かけめぐり   ゴジラはこたつで丸くなるう…… 「……何だ、あの歌は?」 「ひどい歌ですね」 「まったくだ。季節感を完全に無視している」 「ぼくが言った意味は、ちょっとちがうんですけど  続が苦笑したところへ、ドアをノックする音がして、歌って踊れる三男坊が顔を出した。 「よう、兄貴たち、勉強すんだ?」 「まさか終君にそういう質問をされるとは思いませんでしたね。終君自身はどうなんです」  三男坊はTシャツの胸を張った。 「気が乗らないときに勉強したんじゃ、勉強に悪いと思ってさ。今日はもう終わり」 「ものはいいようですね」 「それよりもさ、今目も暑くなりそうじゃない。暑い日には、暑い国の料理が一番いいんだぜ。『シヴァージー』のインド料理なんていいだろうなあ。あそこのナンは、えらくうまいんだ」       ㈽  共和学院の院長である鳥羽靖一郎氏は、現在の環境に、だいたいは満足であった。  権力と暴力を両手にはめて、靖一郎をなぐったりしめあげたりしていた古田代議士は、アメリカへ渡ったあげく事故死した。呪術的な恐怖を彼に与えていた「鎌倉の御前」こと船津老人も死んだ。けむたくてならぬ存在であった甥の竜堂始も、学院から去った。頭痛と心痛の種は、ことごとく消えてしまった。思わず口笛のひとつも出てこようというものである。  もっとも、太陽にだって黒点がある。共和学院の独裁者となりおおせた靖一郎は、政界や財界とのルートを自力で再開発しなくてはならなかったし、キャンパス移転の費用も何とかつくらねばならない。そんなある目のこと、彼は意外な客を迎えることになった。 「マリガン国際財団の代表だって!? 何だってそんな大物が、こんなところへやってくるんだ」  首をひねったのは、自分が世界レベルで大物ではないということぐらいは自覚していたからである。レディLことバトリシア・S・ランズデール女史の名刺には、保守党参議院議員の紹介状もそえられていた。甥たちが知っているように、鳥羽靖一郎は、地位や権威に弱い人間であった。  学院の応接室にレディLを迎えた靖一郎は、まず彼女の肉感的な美しさに圧倒され、ついで彼女からの申し出に肝を奪われた。  マリガン国際財団から、共和学院に、一〇〇〇万ドルが寄付されるというのである。  靖一郎は、ほとんどめまいを感じずにいられなかった。マリガン国際財団は、ニューヨークを本拠として、世界九〇ヵ国で、文化、芸術、学術研究、医療、福祉、教育などに巨大な影響力をおよぼし、ノーベル賞受賞者を四〇人も出している。その世界的な財団と手を組むことができれば、靖一郎の立場は、いちじるしく強化される。補助金ほしさに、文部官僚にぺこぺこする必要もなくなるだろう。なにしろ、右翼的な思想をもつ文部官僚のなかには、「共和学院」という学校名そのものが気にいらないという人物もおり、何かと靖一郎にいやがらせをするのだった。  バラ色の夢を見ている靖一郎は、ランズデール女史の声で現実に引きもどされた。 「ところで、ミスター・トバ、この学院の創立者であるミスター・リュードーのお孫さんは、先日、学院から永久追放されたそうですね」  思いがけぬ、そしていささかまずい話題を持ち出されて、靖一郎は狼狽した。 「いや、何も永久追放などという不穏なことではありません。甥はまだ若いですし、経験をつみ、識見を広めてほしいと、ええと、日本には、かわいい子には旅をさせろということわざがありまして……」 「よろしいじゃありませんの。院長先生には院長先生のお考えがあって、そうなさったのでしょうから。それに、もともと、わたしが興味があるのは、リュードー・ファミリーの長男ではなく、次男のほうです」 「はあ、続ですか」  レディLの豊麗《ほうれい》な肢体を、靖一郎はまぶしそうにながめ、心のなかで首をかしげた。この才色兼備の女性は、続のような白皙の貴公子タイプが好みというわけだろうか。 「次男の方《かた》のほうとは、ミスター・トバは、仲がおよろしいのでしょう?」 「は、はあ、さようで……」  このとき靖一郎は、「正直」という徳目《とくもく》に対して忠実ではなかった。じつは長男の始以上に、次男の続のほうが、靖一郎は苦手なのである。始は寛大なところがあって、とことん叔父を追いつめようとはしないが、続ときては、叔父に対し一グラムの敬意すら払おうとはしない。なにしろ、たぐいまれな美貌であるだけに、いったん視線が針をふくむと、そのとげとげしさといったらなかった。始ににらまれたら、圧倒され、押しつぶされる感じだが、続ににらまれると、突き刺され、切りきざまれる感じなのである。  とにかく、靖一郎に理解できたことは、彼の有力なスポンサーとなるべき人物が、続に関心があるということであった。彼女が寄付の一部として二五万ドルの小切手を置いていった後、靖一郎の脳綱胞は、どうやって続との関係を友好的なものに持ちこむか、その一点にむかってフル回転した。  そうだ、竜堂家当主の座を、続が受けつぐ、ということにすれば、続のほうも、叔父である自分に好意的になるかもしれない。空席となった理事の座を、大学卒業後、続にわたすという方法がある。そして、さらにもうひとつ、叔父と甥との関係を、もっと強固なものにする方法もある。続は男で、靖一郎には娘がいるのだ!  これはなかなか名案であるように思われた。もし靖一郎の思いつきが実現するとすれば、始は共和学院ばかりか竜堂家からも追われることになる。奇妙なことに、靖一郎は、始に対して被害者意識ばかり持っているが、じつはつねに、叔父が甥に対して何かたくらみ、追いつめ、害を加えているのだ。いちいちそれに反応するのもばかばかしいから、始は無視しているが、続は、叔父の小人《しょうじん》ぶりが不快でたまらず、機会があれば、徹底的にやっつけてやろうと思っていた。  それやこれやで、続が靖一郎の思惑《おもわく》に乗るはずがないのだが、靖一郎は、第二次大戦当時の日本軍のように、客観的な状況分析なしで希望的観測ばかりを肥大させるところがあった。その傾向を強めたのは、むろん、レディLの地位と弁舌、それに二五万ドルの小切手だったことは、まちがいない。  帰宅すると、夕食の席で、靖一郎は娘に奇妙な質問をした。ビールの勢いを借りてのことである。 「竜堂家の続君を、茉理はどう思うかね?」  茉理は、まばたきしつつ父を見返した。 「どう思うって、続さんはわたしの従兄よ。そして始さんの弟。だまって立ってれば夢の王子さまで、いったん口を開くと、見えない毒矢が飛びだすわ。お父さんが知らないはずないじゃない」 「いや、そういうことではなくて、いやいや、それはそれでいいが、一個の女性としてだね、一個の男性としての続君をどう思っているかね」  靖一郎が言い終えないうちに、父を見る娘の目は、きわめてうさんくさげなものに変わった。 「お父さん、いったい何をたくらんでいるの?」 「た、たくらんでいるなんて、お前……」 「始さんが寛大だからって、つけあがらないことね。始さんが本気で怒ったら、お父さんは、そりゃあなさけないことになるんだから。どんな皮算用してるかしらないけど、せいぜい現在の幸福をだいじになさいね」  反論しようとして目を白黒させている父親に、あわれみに似た視線を投げつけると、茉理は食堂を出ていってしまった、昂然《こうぜん》とした後姿が、化粧ガラス扉のむこうに消えると、靖一郎は口のなかで何かつぶやき、掌《てのひら》のなかでぬるくなりかけたビールをあおった。一部が気管にはいって、彼はたてつづけにせきこんだ。涙をふきながら正面に目をむけると、冷然たる妻の表情が見えた。 「あなたもまあ、こりない人だこと。この前は古田代議士のばか息子で、今度は続君。どういう基準で人選しているのかうかがいたいものだわ」 「やかましい!」  どなった直後に、靖一郎は、冷汗が首すじに噴き出すのを感じた。これまで妻をどなりつけた記憶はなかったのだ。だが、あえてさらに、彼は虚勢を張った。 「お。おれは鳥羽家の家長だ。お前は家長にさからうのか。もうすこし家長に尊敬をはらうよう心がけたらどうなんだ」 「あらあら、そういうところばかり、甥のまねをして。でも、似あう人と似あわない人がいるということぐらい、わきまえておいたほうがいいでしょうね」  妻も食堂を出ていってしまった。ひとりとりのこされた靖一郎は、オイルサーディンを口に運びながら、しだいに錯覚にとらわれていった。ランズデール女史だけが彼の味方であり理解者であるという錯覚に。       ㈿  レディLことバトリシア・S・ランズデール女史は、まことに活動的な女性であった。  鳥羽靖一郎をごく簡単に手中におさめると、彼女はつぎに東京産業大学をおとずれ、蜂谷教授と面談した。マリガン国際財団の幹部がわざわざおとずれ、世界的に評価される名門大学の教授の椅子を蜂谷に提示したのである。  エリート意識を強烈にくすぐられた蜂谷は、むしろ嬉々《きき》としてレディLの軍門にくだった。彼は自分が現在、教授をしている大学を、心から軽蔑していたのである。 「わたしたちが必要としているのは、きわめて優秀な、そしてごく少数の、ほんもの[#「ほんもの」に傍点]のエリートだけです。つまり、ミスター・ハチヤ、あなたのような。一万人の兵士より、ひとりの将軍《ぜネラル》を、わたしたちは欲しているのです」  レディLの舌は、甘い毒を蜂谷の心にそそぎこみ、それは蜂谷の野心と化合して毒煙をふきあげた。 「そこで、ミスター・ハチヤ、これまであなたとお仲間だった方たちでも、これからはそういう慣れあいの関係をつづけるわけにはいきません」 「とおっしゃると、彼らとの縁を切ってしまえということですか」 「いいえ、そうではありませんわ、ミスター・ハチヤ。あなたが彼らの上に立つのです。彼らはあなたと同格の地位に立てる人々ではありません。彼らは、あなたの支配と監督を受けるか、権勢をあきらめて市井《しせい》の庶民となるか、どちらかを選ぶべきなのです。そうお思いになりません、ミスター・ハチヤ?」  レディLの発言に、蜂谷は心から賛同した。彼女が語っているのは、彼の理想そのものであったからだ。まったく、蜂谷は、オリエント石油の小森や、労働貴族の中熊などと、栄華をわかちあう気はなかった。エリートに友情などありえないのだ。ふと、あることを思いだして、蜂谷はたずねてみた。 「先日、兵器産業連盟の藤木氏が、心神喪失状態で入院したという情報がはいりましたが、あれはあなたがたのなさったことでしょうか」 「さあ、どうでしょうか……」  明確に否定はせず、レディLは笑ってみせた。それを肯定と解釈するのは、峰谷の勝手というものである。 「いずれにしても、マリガン国際財団は、あなたを、あなたにふさわしいりっぱな大学にお迎えしますわ。ミスター・フジキという過去の人など、どうでもよいではありませんの」  生体解剖マニアの田母沢《たもざわ》篤《あつし》は、一日また一日と、欲望を満足させる日の接近を待ちわびつつ、表面上は医化学コンツェルンのオーナー会長として仕事にはげんでいる。仕事の半分以上は、ゴルフや料亭|通《がよ》いであり、ときとして部下の病院長や社長をどなりつけ、ビジネス維誌のインタビューを受け、講演などをおこなう。 「人間はね、君、国を愛し国を守る気慨を持ち、仕事に情熱を持たなきゃいかん。つぎに持つのは趣味だね。趣味のひとつもなければ、長生きしたってつまらんよ」  卑屈そうなビジネス雑誌の記者にそう説教するのは、いい気分である。ビジネス雑誌というものは、成功と失敗をすべて個人の器量や努力の結果であるとし、戦国武将のように特異な時代の特異な人間をひきあいに出しては現代人をお説教するていどの内容だから、田母沢にもえらそうなことが言えるのだ。  田母沢の趣味といえば生体解剖だが、そうそうやれるものではない。そこで田母沢は小動物を飼う。ハムスターにニコチン毒を注射し、モルモットをダーツの的にし、猫に有機水銀を混入したキャットフードを食わせる。これらの小動物たちが苦しみもがいて死ぬありさまを見て、田母沢は心地よげに笑うのだが、しょせん代償行為であるにすぎない。 「このペーパーナイフはな、旧満州のハルビンで酒場つとめをしていた白系露人《エミグランデ》の女の鎖骨《さこつ》をけずってつくったものだ」  いま田母沢が話しかけている相手は、取締役兼秘書室長の横瀬《よこせ》昭次《しょうじ》である。謹聴《きんちょう》の姿勢ではあるが、額に汗が光っていた。 「そのスタンドの笠《かさ》は、中国共産党軍のスパイをしていた女の皮膚をはいでこしらえた。たいして美人ではなかったが、皮膚はきめこまかくて光沢《こうたく》があった。人を憎んで皮膚を憎まず、永《なが》くわしの手もとに置いてやることにしたのじゃて……けけけ、なかなかみごとなものじゃろうが」  横瀬は指先で額の汗をぬぐった。 「そ、それでランズデール女史の件でございますが、オーナー」 「おお、そうじゃったな。で、どうじゃ、あの女は大物か」 「大物です。というより、大物として将来が約束された女性というべきかもしれません」  資料としてまとめたレディLの経歴を、横瀬は読みあげた。大学がどうこう、博士号がどうこう、という長ったらしい報告を聞く間、田母沢の手は、人骨でつくられたペーパーナイフをもてあそんでいた。 「あの女は、アメリカ軍をあごで使えるようなことをいうておったが、それはいささか大げさなんじゃろう?」 「いえ、それは完全な事実です、オーナー。アメリカ政府も国防総省《ペンタゴン》も、結局のところ、マリガン財閥をふくむ四人姉妹《フォー・シスターズ》の支配下にあるわけですから、ランズデール女史が何か要求すれば、在日米軍はそれに応じるでしょう。よほどの無理難題でもないかぎり……」 「ふん、まあいい。奴が実際に力を持っているなら、それを使わせてもらうだけだ」  レディLにも明言したことだが、田母沢は、竜堂兄弟を生体解剖できれば、それでいいのである。そのことを考えると、彼は陶然《とうぜん》としてよだれを流し、先日、ゴルフ場では他人のボールを頭にあててしまうところであった。あのみずみずしい生気に富んだ身体にメスを突きたて、麻酔を弱くして、苦痛の叫びをおこさせることを妄想すると、その日まで健康でいなくては、と決意する老人であった。 「あの女めが、できもしないことを約束して、わしをぬか喜びさせたのであれば、ただではおかん。いつわりを吐いた舌を切りとってやる」  オーナーのつぶやきを耳にして、横瀬秘書室長は身ぶるいした。それが冗談などではないことを。彼は知っていた。殺された小動物の死体を処分するのは、つねに彼の役割だったからである。  八月一日。竜堂始は祖父の遺稿を、教育論、日本・中国関係論、紀行文、近代中国文学研究などのジャンルにわける作業をしていた。昼食前の時刻に、続が書斎にあらわれて、困惑とも皮肉ともつかぬ表情で、叔父の鳥羽靖一郎から招待状が送られてきたことを告げた。 「八月三日、つまりあさってにね、ばくを赤坂のレストランに招待してくれるそうです」 「そいつはけっこうなことじゃないか」 「ほんとうにそう思いますか、兄さん?」 「思うね。まさか靖一郎叔父が、料理に毒を入れもしまいさ。せいぜい高いものをおごらせてやれよ」  すると続はおかしそうに微笑した。 「じゃ、いっしょに行きましょう、兄さん」 「うん? どうしておれが」 「だって招待状はあと三通きてるんですからね。はい、これが兄さんの分です」  弟の手からそれを受けとった始は、しぶい表情で封書を窓からの光にすかした。 「まさか罪ほろぼしするつもりとも思えんなあ。どうせ何かせこいことをたくらんでいるんだろう」 「ことわりますか、やっぱり」  次男坊の問いに、長男坊は頭《かぶり》をふった。 「いや、ありがたく招待を受けるさ。ここでことわっても、どうせまた何か言ってくるにちがいない。めんどうなご招待は、一度ですませたいからな」  長兄の決定は、一家の方針。こうして八月三日夜、竜堂兄弟四人は、叔父の招待を受けることになったのである。 [#改ページ] 第八章 歴史は夜にもつくられる       ㈵  竜堂続は、兄弟のなかで一番おしゃれである。これは、自他ともに認めるところであるが、この美貌の若者の場合、だいたい何を着てもさまになるのだ。街を歩いて、男性ファッションモデルやタレントになるよう勧《すす》められたこと数知れず、だが一度も引きうけたことはない。  この日も、白い麻の夏用スーツに、コーヒーブラックのイタリアンシャツ、明るいエメラルドグリーンのネクタイをぴしりと決めて、クリスチャン・ディオールのコロンもかけ、玄関ホールの大きな鏡の前で身つくろいを確認すると、ネクタイをしめただけで暑そうな表情をしている兄に感想を求めた。 「どうです、兄さん、これ」 「いいんじゃないか、決まってるよ」  始にはじつはファッションのセンスなど大してないので、自分の服さえ、ときとして続に選んでもらう始末《しまつ》なのだ。夏など、だいたいTシャツにサファリでも着こめば上々である。レストランに招待されるとあって、この日はいやいやながらのネクタイ姿だ。年少組も、それぞれ正装らしきものをまとったが、三男坊の終が玄関先で私見《しけん》をのべた。 「鳥羽の叔父さんに、うかうかごちそうになっていいのかなあ。あの叔父さん、おごってもらったことは忘れて、おごったことばかり憶えてるタイプだぜ」 「どうせ恩に着せられるなら、思いきり高価《たか》い料理をごちそうになりましょう。それが、おごってもらう者の心得です」  結果として、竜堂兄弟は、叔父の靖一郎を見あやまることになった。始は、靖一郎がそれほど悪どいことはやらないだろう、と思っていたし、続は、小心な叔父にどれほどのことができるものか、と考えていたのだった。二三歳と一九歳である。いくらシビアに人物を鑑定するとしても、限界があった。それに、茉理も同席するということだし、そう妙なことにもならないだろう、と思ったのである。  その日、八月三日午後六時からの「夕食会」は、最初、赤坂ということになっていたのだが、当日朝、茉理から変更の連絡があった。中央区の、いわゆるウォーターフロント地区にあるチェコスロバキア料理店で、ということであった。 「ウォーターフロントってのはどうも鬼門だな。先日の件があるし……」 「でも、行ったらいきなり機動隊に包囲されるってこともないでしょう。たとえ包囲されたところで、何ほどのこともありませんよ」  いずれにせよ、場所の変更を理由に、いまさら招待をことわることもできない。五時前に家を出て、竜堂兄弟は、タクシーに乗りこんだ。  車窓の左右に、制服警官や機動隊員の姿が見える。湾岸道路やビッグボウルでの大騒動以来、やたらと彼らの姿が目だつようになった。警官の数を増やせば、社会の安全度が高くなると思いこんでいるらしい。全体主義国家の発想だ。今回の事態では、竜堂兄弟にも責任があるのだが、だからといって安直きわまる警察国家化に、始は好意的ではいられないのである。  隅田川河口近く、中央区新川に、そのレストランはあった。倉庫の上階《ロフト》を改造したもので、外見はむきだしのコンクリートだが、内装や調度は重厚で、照明も落ちついており、オーク材の壁面を、ボヘミアン・グラスのコレクションが飾っている。四人が店にはいると、叔父の靖一郎が出迎えた。 「やあ、よくきてくれた、何ヵ月ぶりかねえ、いや、みんな元気そうで何よりだ」  つくられた陽気さは、軽薄さという友人をつれてくる。鳥羽靖一郎の浮わつきぶりは、年少組の目にも明らかだった。余が終の顔を見あげ、それに応《こた》えて終が片目をつぶってみせる。こいつはおごらせ甲斐《がい》がありそうだ、という合図である。  茉理はブルーのカクテルドレスなど着て、ドレスアップしている。なかなかよく似あっているが、当人はいささか窮屈《きゅうくつ》そうだった。茉理の母、つまり竜堂兄弟の叔母は、偏頭痛だとかで本日は失礼する、ということであった。  モラビア風ローストポーク、ボヘミア風|合鴨《あいがも》の蒸焼《むしやき》、その他、チエコの各地方や城の名前をつけた料理が、六人の舌を楽しませた。終がいうように、「誰のおごりだろうと、料理の味は変わらない」のである。  コーヒーは、席を変えて出されることになっていた。コーヒーテーブルを囲む席に着くと、靖一郎は自慢げに口を開いた。 「じつはな、今度、アメリカのマリガン国際財団と、提携することになったんだ。今夜はそれを君たちに知らせておこうと思ってね。共和学院の前途は、きわめて明るいよ」  マリガン国際財団!?  始と続は、一瞬、安楽椅子のなかで身じろぎせずにいられなかった。藤木が口にした「四人姉妹《フォー・シスターズ》」のなかでも、上位を占めるマリガンの名が、このような場で出てくるとは。靖一郎は、ふたりがおどろいた意味を誤解し、得意満面で胸をそらした。  鳥羽靖一郎は、マリガン財閥の裏面を知らない。というより、海上に出た氷山のごく一部分を知っているだけだ。マリガンの財力と、政治・文化・経済に対する影響力とを、表面的に知っており、その好意をえたと思いこんでいる。しかも、靖一郎にしてみれば、かつての古田代議士のような暴力も、船津老人のような呪術めいた圧迫感もなく、より大きな利益を受けることができるのだ。甥たちにむかって、胸をはりたくなるのも当然だろう。  コーヒーが運ばれる直前に座をはずした靖一郎は、もどってくると、コーヒーを飲む続をちらりと見て声をかけた。 「ああ、そうだ、続君。ちょっとこちらの部屋に来てくれんかね」 「ぼくだけですか?」 「そ、そうなんだよ。君にぜひ引きあわせたい人がいるんだ」 「兄がいっしょではいけないのですか」  続の語調は、単に質問しているだけではない。後ろめたいことがあるんだろう、といわんばかりである。靖一郎は、不快感をこらえ、せいぜいものわかりのよいおとなをよそおって、笑顔をつくった。 「それが若いご婦人でね、続君のファンだそうだ。始君も、そういうご対面に割りこむほど、やぼではなかろう」  このあたり、年齢からもくる自然な狡猜《こうかつ》さがあって、続も、拒絶できなくなった。ちょうど空になったコーヒーカップを置くと、兄に目礼して立ちあがった。  叔父に案内されて席をはずす弟の後姿を見送ると、始は、安楽椅子にすわりなおして、色気のない話題を茉理に持ちかけた。 「で、叔父さんはいったい何をたくらんでいるんだい?」 「それが、わたしにもよくわからないのだけど、とにかく有頂天《うちようてん》なの。父って、ほんとうに歩くリトマス試験紙よ。強い味方がつくと赤くなるし、味方がいなくなると青くなるの」  茉理の比喩《ひゆ》は始を笑わせたが、じつのところ、笑ってばかりはいられない。マリガン財閥に代表される四人姉妹《フォー・シスターズ》の指が、直接、竜堂家の周辺に伸びてきたのである。彼らの目的が、共和学院を支配することだけに限定されるとは、とうてい思えない、標的は竜堂兄弟であるはずだ。 「……靖一郎叔父は、餌で釣《つ》られて、四人姉妹《フォー・シスターズ》の陣営にとりこまれたと見るべきだろうか。すると続をひとりで行かせたのはまちがいだったかもしれない」  そう始が思い、不安を芽ぶかせたとき、茉理が尋ねた。 「何かで聞いたような気がするけど、マリガン財閥って。そんなにおそろしい連中なの?」 「何冊かの本によれば、二〇世紀にはいってから発生した戦争の大部分を、裏であやつっているらしい。朝鮮戦争、ベトナム戦争、それどころか世界大戦までね」 「何だか劇画の世界ね」 「劇画のほうが上等だよ」  始は辛辣《しんらつ》に評価を下した。 「もっとも、おれは、陰謀史観《いんぼうしかん》ってやつがあんまり好きじゃない。フランス革命にしろ、ロシア革命にしろ、風を送りこんだ奴がいたとしても、火は民衆の間から自然に燃えあがったと思っている。陰謀やテロだけで歴史が動くと思いこんでいる奴らが、そう信じこむのは勝手だけどね」  離れた席で、何やらささやきあっていた終と余が、長兄にむかって、ロフトの屋上にあるテラスに上る許可を求めた。うなずいて。始は、屋上へつづく階段のほうへ小走りに駆けていく弟たちを見送った。茉理が、ややためらいがちに話を再開した。 「ね、始さん、わたし思うんだけど、一〇〇メートルを九秒九で走れる人間が、街のレストランへ行くのに全力疾走しなければならないということはないわよね」  茉理が言いたいことは、始にはわかる。自分をたいせつにしてほしい、と言っているのだ。それを感謝しつつ、始は、つい尋ねてみたくなった。 「茉理ちゃんは、おれたちにいったい何ができると思うんだい?」 「始さんは何をしたいの?」 「それが問題なんだ、じつは」  竜堂家は、始たちをもって一一七代を算《かぞ》える、と、船津老人は言った。過去一一六代の祖先たちは、ただ竜種の血統を後世に伝えるためにのみ存在したのだろうか。なぜ始たちが、覚醒すべき一一七代めとして現世にあるのか。何をなせばよいのか。何をしたいかということになれば、始はとにかく弟たちを無事に成人させ、自分はこつこつと中国古代神話の研究でもしていたいのだ。だがそれは許されることなのだろうか。考えあぐねてしまう始なのである。  そのころ、竜堂家の年少組ふたりは、ロフトの屋上に上って、隅田川の河面を吹きぬける心地よい夜風にあたっていた。鉄づくりの手すりに身をもたせかけ、暮れきった夏空の下の夜景を見わたすうち、終が弟の肩をたたいた。 「見ろよ、でかい飛行船が泊まってるぜ」  佃《つくだ》の造船工場跡地が、河むこうにひろがっている。二〇万平方メートルをこす広大な空地だ。そこに銀色の大きな飛行船が係留《けいりゅう》されていた。  余が考えこむような視線を兄にむけた。 「ね、終兄さん、あの飛行船ってさ、ぼくたちが湾岸道路で見かけたやつと同じじゃないかしら」 「さあ、飛行船なんて、どれもこれも形が同じだからなあ。よくわからないや」  銀色の飛行船は、全長二〇〇メートル、全高三五メートルの偉容を誇っていた。これは二〇世紀前半の巨船ヒンデンブルク号より、ひとまわり小さいだけである。竜堂兄弟は知らなかったが、飛行船の豪華なキャビンは、いま客を迎えたところだった。       ㈼ 「竜堂続さまでいらっしゃいますか。私どもの主人が、ぜひあなたさまにお目にかかりたいと申しております。おこしいただいて恐縮です」  こういうときの口上は、鄭重か粗野かの差はあれ。似たようなものである。出迎えた黒服の男に、一グラムの感銘も受けず、竜営続は、タラップを登って、地上に係留された飛行船のキャビンにはいった。日本の不動産業者なら「超豪邸」とさわぎたてるだろうほどのスペースがある。続を迎えた女性が、媽然《えんぜん》としてほほえんだ。 「ようこそ、ミスター・ツヅク・リュードー、あなたを心から歓迎しますわ」  うら若い女性と靖一郎叔父はいったが、それは叔父の目から見てのことであったようだ。続よりは一〇歳ほど年長に見えた。成熟した、そして充実した美しさだ。優美さをそこなわない範囲で、生命力と意志力のたくましさを感じさせるのは。ルネサンス時代の彫刻を思わせた。外国人であることはたしかだろうが、日本語はよどみがない。むろん彼女はレディLことバトリシア・S・ランズデールであった。  だが、美しさを認識することと、美しさに惹《ひ》かれることとは、別のものである。続の表情は冷淡であり、内心はさらに冷淡だった。 「お招きにあずかってうれしく思います、マダム」  その呼びかけを、相手がべつに否定しなかったので、続は。今後も使うことにした。 「わたしはバトリシア・S・ランズデール。あなたの叔父さまの友人です。いちおう独身なのだけど、あなたがマダムと呼んでくださる、そのひびきを好ましく思いますわ」 「それじゃあ、私はこれで。やぼなことはしたくないし、どうぞ、ランズデールさん、よい夜を」  うやうやしく、かつあわただしく、一礼して靖一郎は姿を消した。学院長として教職員や学生にのぞむときの尊大《そんだい》さは、かけらもなく、従僕《じゅうぼく》のような態度だった。ひややかに叔父を見送る続は、レディLの声を横顔に受けた、 「わたしたちは、すこし前から、あなたがた竜堂家の人たちを知っていましたのよ」 「何をご存じだとおっしゃるのです」  最初から、続の応答は好戦的といってよかった。 「あなたがた兄弟がドラゴンの末裔だってことをね」 「ああそうですか、それで?」  続の反応は、ややレディLの意表をついた。彼女はわずかに両眼を細めて、若者の、たぐいまれな美貌を見なおした。さりげなく投げつけた爆弾は、さらにさりげなく投げ返されてしまったのだ。 「平然としておいでね。自分たちの存在が、他の人にとっておどろくにたりることだとはお思いにならないの」 「べつに。アインシュタインがユダヤ人であっても、アラブ人であっても、彼個人の人格にも存在意義にもかかわりのないことでしょう。ぼくや兄弟たちが、たとえ何者だとしても、同じことです」  続はそう突き放し、かるく両眼を光らせた。 「ところで、叔父がそのようなことをあなたに告げたのですか」 「いえ、彼は知らないわ、何《なん》にもね。重要なことは何《なに》ひとつ知らない、あの人は」  侮蔑というより無関心に近い口調でレディLは答え、淫蕩《いんとう》な笑顔を続にむけた。続の首すじに、小さな虫がはった。 「あんな人のことはどうでもいいでしょう。それよりもっとたいせつなお話をしないこと? あなたがたが持つ力と、それにともなう義務のために。そしてあなたがたが力を発揮した相手の人たちのためにもね」 「どういうことです?」 「たとえば、フェアリーランドと湾岸道路が炎上したときに、多くの死傷者が出たわ。あなたたちの行動に巻きこまれた人々のためにも、ね。わたしたちと手を結んで、あなたたちの力を役だてるべきでしょう」 「奇妙な論理ですね。ぼくたちがあなたがたの言うなりになったら、フェアリーランドやビッグボウルで亡くなった人たちが、生き返るとでもいうんですか」  意図しているのか、いないのか、可愛げのまったくない返答である。 「あれはぼくたちを襲った狂人どもの責任です。彼らが罪をつぐなうべきです」 「道徳的な責任はどうなるのかしらね」 「そりゃあります。ですけど。それはぼくたちの精神的な負担の問題であって、あなたがたに干渉されるいわれは、まったくありませんね。あなたがた四人姉妹に利益をもたらすために、何干万人もの人が死んでいる。それをどうお考えなのです?」 「ジンフィズでもいかが?」 「けっこうです」  続はまたも可愛げのない反応をしてみせた。それにとどまらず、こうつづける。 「あなたがたに何をごちそうになっても、血と屍肉《しにく》の味がするでしょう。ぼくはグルメでも何でもないけど、人なみの味覚は持っておりますので……」  続の毒舌を平然と聞き流すと、レディLは肘かけ椅子に腰をおろして脚を組んだ。タイト風の緑のスカートから伸びた脚は、さぞ多くの男を惑わせてきたことだろう。 「そうね、わたしたちにとって何が最大で最良のビジネスかご存じかしら」 「知りませんね」 「戦争のコントロールよ」  レディLの瞳に妖しい影が踊った。 「戦争をおこし、それを適切な規模にコントロールする。武器を売りつけ、終わらせるも続けさせるも思いのまま。イランとイラクのようにね」 [#天野版挿絵 ]       ㈽  続は、おぞましい嫌悪感の手が背骨を上下するのを実感した。 「すこし思いだしたことがあります。デュパン財閥というのは、たしか世界で最初に原子爆弾を開発した企業でしたね」 「百科事典にはそう出てるわね」 「それ以来、核兵器と原子力発電を両手に、世界のエネルギーと戦争を支配してきた、と聞いています。でもそれはデュパンにかぎらない。四人姉妹の全員がそうなんですね」 「デュパンの席次《せきじ》は、四人姉妹中の末席よ」 「そのうち全面核戦争でもおこすつもりですか」 「全面核戦争などおきないわ、かわいい坊や」 「四人姉妹《フォー・シスターズ》がおこさせない?」 「そうよ、りこうな坊や」 「よくわかりますよ。宿主がいなくては、寄生虫は生きていけない」  続は、侮蔑の思いを全身で表現し、床を蹴りつけた。 「あなたたちは戦争をあおり、人々の憎悪を喰いものにして肥え太っている。それがそんなに自慢なのですか」 「憎悪を糧《かて》とする人間には、それにふさわしい来歴《らいれき》があると思わない?」 「かもしれませんが、ぼくに身の上話でもなさるおつもりですか」 「というほどのものではないわ。わたしが日本人の血をひきながら、日本を憎んでいる理由がある、というだけのことよ」  レディLの声に、深刻なひびきを続は感じた。この夜ではじめてのことだった。沈黙している続の耳に、過去を語るレディLの声が流れこんできた。  第二次世界大戦末期、アメリカ大統領ルーズベルトとソビエト首相スターリンは、ヤルタで密約をかわした。その結果、ソビエトは日本に宣戦布告するにいたる。  当時、中国大陸東北部には、「満州帝国」と称する傀儡《かいらい》政権があり、関東《かんとう》軍と呼ばれる日本軍の大兵力がこれを実質的に支配していた。 「満州帝国」の総理であった張《チャン》景恵《チンホイ》は、各都市を無防備都市として宣言するよう、関東軍に依頼した。そうすれば、ソビエト軍が各都市で破壊・殺戮・掠奪をおこなおうとするとき、国際法によってそれを処罰することができる。だが、関東軍は張景恵の依頼を拒否した。ソビエト軍が各都市に乱入し、一般市民を害する、その間に自分たちが逃げることができる、というわけだ。さらに関東軍は、自分と家族たちが列車に乗ってまっさきに逃亡したあと、通過した鉄橋をつぎつぎと爆破した。このため一般人は逃げることができず、ソビエト軍の暴力の餌食《えじき》となった。関東軍は、民間人を徹底的に利用し、犠牲にすることで、自分たちだけ身の安全を守ったのである。 「世界の歴史上、もっとも卑劣で恥知らずの軍隊。それが関東軍よ」 「その点は同感ですけど、あなた個人の怨《うら》みはどうなんです」  続の質問に、レディLは答えた。彼女の祖母は、ソ連兵に暴行されて、日本へ帰ってから混血児を生んだ。女の子だった。その女の子は、「あいのこ」とさげすまれながら、長じて、公費留学生として渡米し、マルコム・ランズデールという男性と結婚して、さらに一女をもうけた。彼は「四人姉妹」中の実力派幹部として「ミスターL」と呼ばれ、彼が死ぬと、娘がその称号を受けついだ。すなわちレディLである。 「四人姉妹《フォー・シスターズ》の政治力、財力と、あなたがた兄弟の力とを化合させれば、恐れるものは何もないはずよ。もっとも、すでにわたしは、四人姉妹の最高意思以外、何も恐れてはいないけどね。これから、祖母と母を捨てた日本を、苦境に追いこみ、日本人から富をしぼりあげてやるための日々がはじまるのだわ」 「他の人にも言ったことがありますけどね、日本が減びるのは、いっこうにかまいません。いっそ滅びたほうが、他の多くの国のためかもしれませんね」  続の声が、一段とそっけなさを増した。 「ですが、だからといって、あなたがたと手を組まなければならない理由が、どこにあるのですか。あなたがたが、ぼくたち兄弟に対してできることといえば、ぼくたちに近づかないこと、それだけですよ」 「……南海紅竜王陛下」  相手の言葉には答えず、そう呼びかけて、レディLはふくみ笑いした。 「四海竜王のひとりである南海紅竜王は、華麗にして鋭気《えいき》と烈気《れっき》に富むとか。まったく、あなたそのものだわ。だけど、まあお聞きなさい。あなたたちは先だってから日本の権力集団と対立を強《し》いられているはずでしょう。とすれば、わたしたちは力をあわせられるはずよ」 「ぼくたちはべつに日本を憎んではいません。かなり愛想をつかしてはいますけどね。同志あつかいされるのは迷惑です」  続の声は、レディLのなめらかな肌の上をすべって、彼女の心臓にはとどかなかった。 「わたしとはいわないわ、四人姉妹《フォー・シスターズ》にはけっしてさからえないのよ、勇敢な坊や。アフリカや中東やラテンアメリカや東南アジアで、大統領や首相が幾人、四人姉妹に殺されたか教えてあげましょうか」 「アメリカ合衆国の大統領も?」 「耳学問の素養があるようね」  そういう表現で、レディLは、続の質問を肯定《こうてい》した。 「そういう罪悪のかずかずが、一部の人だけでなく、世界の多くの人々に知れわたったら、あなたがたのいう力とか富とかは、どういうことになるんでしょうね」 「知られてもいっこうにかまわないわ」  レディLは断言した。虚勢とはとうていいえない力強さだった。 「なぜなら、世界の大多数の人間は、四人姉妹の支配を受け容れているからよ。四人姉妹は、石油を採掘してそれを売る。小麦も砂糖も黄金も同じこと。四人姉妹がそっぽをむいたら、日本人はドライブもできず、パンを食べることもできなくなるのよ。それどころか、五、六〇の国は、たちまちつぶれてしまうわ。世界のシステムがそうなっているのよ。あなたのいう悪業とやらも、そのシステムにとって不可欠の一部なのだから」 「世界のシステムにとってではなくて、四人姉妹《フォー・シスターズ》のシステムにとってでしょう」 「同じことよ」  一言のもとに、レディLは、続の反論を封じこめた。傲慢だろうか? 否、それは事実にもとづく自信だった。 「だから、そのシステムを破壊し、世界経済の正常な運営をさまたげようとする者こそが悪なのよ。イスラム復古派とか、ラテンアメリカの左翼ゲリラとかね」  レディLは声をたてずに笑った。 「たとえば、あなたの叔父さんに、話してみるといいわ。マリガン財団は四人姉妹の一員として、多くの戦争をひきおこし、二○世紀にはいって一億人以上の人間の死に責任があります、とね。答は、わたしにはわかっているわ。それがどうしたというんだ、自分には関係ない、と」 「叔父はそう言うでしょうね。ですが、ぼくが叔父と意見を同じくしなきゃならない理由はありません。もうお話しすることもないはずです。失礼させていただきましょう」 「そうね、話すより楽しいことが、この世にはあるわ。おいでなさい」  レディLの反応は、続の言葉を、故意に曲解したものだった。若い客人に背をむけ、女王のように堂々とした足どりで隣室にむかう。続がついてくるのを、疑いもしないようすであった。緑の、ごくありふれたスーツが、着る者によって、宮廷の礼服よりも豪著《ごうしゃ》に見えることもあるのだ。その点には、続は感心したが、意識と無意識の双方から、続は、この才色兼傭の女傑めいた女性に、好意を持つことはできなかった。  ドアがひらかれ、隣室の光景が続の視界に映った。  隣室がビジネスライクなニューヨーク・スタイルであったのに、こちらは思いきって豪著《ごうしゃ》な雰囲気に満ちていた。  ブルボン王朝風の絢燗《けんらん》とした黄金色の唐草模様の彫刻をからませた天井と欄間《らんま》。精巧をきわめる紫水晶《アメジスト》のシャンデリア。四方の壁をおおう深紅のビロウドの壁かけ。緋色の絨毯《じゅうたん》。床の中央には、直径三メートルをこす円形寝台が置かれ、絹蒲団《きぬぶとん》がかけられている。寝台の左右にあるナイトテーブルには、高名なスウェーデンの家具工芸家の紋章がはいっていた。胡桃《くるみ》材の外装をもつホームバーの設備もあり、コニャックやシェリーの瓶が照明に銀色の反射を見せている。  何を目的とした部屋かは、一目|瞭然《りょうぜん》であった。黙然とたたずむ続の前で、レディLは身をひるがえした。若者の首に両腕を投げかける。 「あなたは、わたしの愛にふさわしい若者だわ。わたしのパートナーになって、わたしとともに極東の支配者におなりなさい。あなたには、それができるわ」 「四人姉妹《フォー・シスターズ》の下で?」 「こだわっているの? 四人姉妹《フォー・シスターズ》は、いったん権限をゆだねた相手に、無用の干渉はしないわ。極東一帯で、どんなことでもできるし、世界全体を動かす事業にも参画できるのよ。それどころか、いつかはそれ以上の……」 「すみませんが、マダム……」  首にまわされた女の両手を、続はひややかにもぎ離した。 「ぼくは面食《めんく》いなんです。ですから、マダム、あなたのお誘いを受けるのは、ぼくにとって耐えられないことなのです」  美貌を誇る女性に対して、これほど痛烈な拒絶の返答は、他にないであろう。続の美しい両眼には霜がおりていた。  対照的に、レディLの両眼には、熱湯がわきたっていた。やがて肉感的な唇から押し出された声は、平静さをよそおおうとして失敗し、ひびわれていた。 「そう、わたしを拒否するのね」 「ご理解いただけて光栄です、マダム」 「再考の余地はないの?」 「あなたを抱くのも、四人姉妹《フォー・シスターズ》に抱きこまれるのも、ごめんこうむります。あなたはぼくを南海紅竜王陛下[#「陛下」に傍点]と呼んだ。陛下と呼ばれる者が、誰かにひざを屈し、飼われてこころよしとするはずがないではありませんか」  言いすてると、立ちつくすレディLにはもはや一瞥《いちべつ》もくれず、続は緋色の絨毯を踏んでドアへむかった、彼がノブに手を伸ばすより早く、ドアが開いて、想像どおりの陳腐《ちんぶ》な光景があらわれた。ヘビー級プロボクサーのような体格をした無表情な男たちが、迷彩をほどこした戦闘服につつまれた身体で、続の前に筋骨の壁をつくっていた。 「なめられたものですね……」  薄い刃のように危険な笑《え》みが、端麗な唇にひらめいた。同時に、両眼には苛烈《かれつ》なかがやきが宿った。  つぎの瞬間、緊張しきった空気が炸裂した。  続の右|肘《ひじ》が、彼の右に立つ男の胸に打ちこまれた。肋骨をくだかれた男が身体をふたつに折ったとき、正面の男が、たくましいあごを蹴りあげられてのけぞっている。  スピードはすさまじいが、続の動作は、舞踊さながらに優美だった。その優美さは、彼の本名であるかもしれない紅竜王という名にふさわしく、深紅の彩《いろど》りを必要とした。前歯をくだかれた男が、血のかたまりを噴いて壁面にたたきつけられ、胸郭《きようかく》をつぶされた大男が、血へどを吐いて床でバウンドする。七、八個の人体が室内にばらまかれ、最後の、そして最大の体躯《たいく》の男は、恐怖とおどろきに、半失神状態におちいっている。  その巨漢の身体を、ビーチボールのように軽々とかかえあげると、続は、ドアにむかってたたきつけた。頑丈な桜材のドアも、その重量と勢いをささえることはできなかった。負傷者の脳天にひびをいれるような、すさまじい音がして、ドアは割れとんだ。続は、肩ごしの視線をレディLに投げつけると、あざけるように一礼して、隣室へ出た。そこは三重にガラスをはりめぐらしたラウンジだった。  そして、続の眼下に、光の海がひろがっていた。       ㈿  さすがに、続も、とっさに声が出ず、足もとの夜景を見おろしていた。 「おわかり? 飛行船はすでに離陸していたの。卜ーキョー上空八OOメートルよ」  続の背後から、レディLが不吉な声を投げかけた。飛行船は、近代世界でもっとも静かな乗物といわれる。離陸に気づかなかった続がうかつというより、たくみな演出で続に気づかせなかったレディLが、上手《うわて》というべきであったろう。さらには、続自身の体調も、さっきから完全ではなかったのだ。 「逃がれる道はどこにもないわ。さあ、どうするの、美しいドラゴンの末裔《まつえい》、南海紅竜王陛下」  あざけりに、より強烈なあざけりを返そうとして、続の舌が奇妙にこわばった。全身から力がぬけ、見えない汗となって体外に流出していくような感じだった。身体がこまかく揺れはじめている。いつもの続は、自分の身体を羽毛より軽くあつかっているのに、このとき、自分の身体がたいそう重く感じられた。 「この飛行船は、このまま横田の米軍基地に直行することになっているわ」  レディLの演説がつづいている。 「そしてそこで、ゆっくり、あなたの美しい身体を、わたしたちの利益のために役だててもらいましょう。いえ、訂正するわ。世界と文明のためにね」 「勝ったと思うのは、早すぎますよ。ぼくの兄弟たちが黙ってはいません。すこし心配なさったほうがいいと思いますね」  続の声は低く、リズムもやや乱れていた。 「ところが、あなたやあなたの兄弟を怒らせることが、さしあたっての目的なのよ。竜王兄弟がひとたび怒ったとき、そのパワーはどう発揮されるのか。興味を持たずにいられないわね」  レディLは、妖《あや》しい粘液めいた光を両眼にたたえた。続の変調に気づいたのだ。唇の両端がまくれあがって、表情に淫蕩さを加えた。 「ようやく効《き》いてきたようね」  してやった、といいたげな声が、続の鼓膜と聴覚神経を、不快に刺激した。 「あなたの叔父さんに言いつけて、あなたのコーヒーに筋肉|弛緩《しかん》剤を入れさせておいたのよ。象でも立っていられないくらい強力なやつを、しかも大量にね。あなたの叔父さんは、媚薬だと信じているけど……」  高々とレディLは哄笑《こうしょう》し、それをおさめると。残忍な口調で部下に命じた。この気の強い若者を、ワイヤーロープで縛りあげ、頭部には、電気ショックを与えるための特殊な金属ベルトを巻きつけるように、と。  壁に寄りかかり、かろうじて身をささえながら、続は、豊かで強烈な感情が高まるのを感じていた。それは彼の誇りを傷つけようとする者への怒りであり、この場にいない兄弟たちへの想いだった。  何くわぬ表情《かお》でロフトにもどってきた鳥羽靖一郎は、椅子から立ちあがった始の長身に圧倒されて、半歩しりぞいた。どうにか態勢をととのえたのは、マリガン国際財団との提携などが、どれほど危険なことかわかっているのか、と問われたときである。 「始君、どうも失望を禁じえんな。ごく一部の左翼がかった連中が、下心があってマリガン財閥やらロックフォード財閥の悪口を言いふらす。その安っぽい口車に乗って、君までそんなくだらん世迷言《よまいごと》をいうのかね」  叔父の無内容な反論など、始は聞いていなかった。二〇センチも身長の低い叔父をにらみおろして、彼は尋ねた。 「続はどこにいるんです?」  叔父を主体性のある人間だと思ったのが、まちがいだった。叔父は強者にハンドルをまわされて音をだす、おもちゃのオルゴールにすぎない。誰がそのハンドルをまわしているか、つねにそれが問題なのだ。  その叔父は、甥の詰問に、こう答えた。 「マリガン国際財団代表のランズデール女史が、続君をお気に入りでね。豪華飛行船で夜空の散歩を楽しませてやろうとおっしゃる。さすがにあちらの財閥は、スケールがちがう」  靖一郎は、やや早口になった。始に相対しているうちに、自分の思惑《おもわく》をしゃべるという誘惑に駆られて、自制できなくなったのだ。彼の声は早く、しかも高く大きくなった。 「私はだな、始君、続君が大学を卒業したら共和学院の理事にしてやるつもりだ。君にとっては不愉快なことだろうが、愚兄賢弟《ぐけいけんてい》という言葉もある。どうかね、ただ最年長というだけで家長づらするのをやめて、続君に当主の席をゆずったら……」  言い終えないうちに、冷たい水が靖一郎の顔にあびせられた。彼はまばたきし、目をむき、加言者にむかってわめいた。 「な、何をするんだ、茉理……!」 「お父さん、わたし、なさけないわ」  空になったコップをテーブルにもどして、莱理はため息をついた。 「一八年間生きてきて、こんなになさけない思いをしたの、はじめて。他人の力を借りて自分の甥に優越感を誇示して、それでお父さんは自慢なの? お願いだから、みっともないまねやめて、お父さん」 「茉理ちゃん」  なだめるように声をかけたのは始で、靖一郎は口をあけたまま、反駁《はんばく》もできずにいる。 「始さん、わたし……ごめんなさい」 「茉理ちゃんがあやまることはないよ。何も気にすることはない。ほんとに。暗い表情《かお》は茉理ちゃんらしくないぞ」  始が笑ってみせたとき、屋上へ通じる階段から、竜堂家の末弟が大声で呼びかけた。 「始兄さん、あれを見て!」  ただならぬ気配を感じて、無言のまま、始が階段を駆けあがる。屋上で長兄を待っていたらしい三男坊が。これも無言のまま、空を指さした。  夜空に浮かびあがった飛行船のキャビンが、一角を淡紅色にかがやかせた。そしてつぎの瞬間、キャビンの壁から水平に焔が噴きだしたのだ。一瞬、飛行船は、見あげる人々の目に、できそこないの宇宙船めいて見えた。 [#改ページ] 第九章 摩天楼《まてんろう》のドラゴン       ㈵  火を噴いた飛行船は、酔っぱらいのようによろめきながら、夜空を西の方角へ進んでいく。誰の目にも明らかな異変が生じていた。  竜堂兄弟を追うように、茉理とその父親も屋上テラスにあがってきたが、事情をさとったとき、靖一郎の狼狽《ろうばい》は、はなはだしかった。つい先刻までの心理的優位もどこへやら、手とロをわななかせる。 「わ、私は何も知らんぞ。私が責任をとらなぎゃならんことは、何もない」  娘に「歩くリトマス試験紙」といわれた男は、いまやアルカリ性の顔色になっていた。始は完全に彼を無視して、飛行船の行方を目で遺っている。その鋭くひきしまった横顔を、おびえたように盗み見ながら、靖一郎は、自己防衛に必死のていたらくであった。 「叔父さん、ちょっと黙ってなよ! みぐるしいから」  腹だたしげにどなったのは、三男坊の終である。四○歳近くも年下の甥にそう決めつけられて、靖一郎は、むっとするより先に、たじたじとなった。とにかく、彼の甥たちは、本気になったときの迫力が、叔父をはるかに上まわるのだ。 「行くぞ、終、余」  叔父を無視したまま始が弟たちに呼びかけた。 「わたしも行くわ、始さん」  茉理が申し出たが、始は頭を振った。 「茉理ちゃん、これは勇気や決心ではどうにもならないことだ。おれたちだけで行くから、茉理ちゃんは叔父さんといっしょにここにいてくれ。第一、せっかくのドレスが汚れたりしたら、もったいないだろ?」  数秒の沈黙が、茉理の返答に先立った。 「わかったわ、そうします。始さんのじゃましたらいけないものね。でも、みんな気をつけてね」 「そうするよ。ああ、それと叔父さん、今日の勘定については後日、請求書を送って下さい」  もはや一円もおごってもらう気はない。辛辣《しんらつ》な意志表示に、靖一郎は口をもぐもぐさせた。  すべての事態に対して責任を持つことは、始にはできない。また、持つ気もない。だが、ことが竜堂家のことであれば、話は異《こと》なる。  一一七代めという数字の真偽《しんぎ》はべつとして、始は竜堂家の長兄であり、当主であり、家長であった。弟たちの身の安全は、彼が責任をとるべき範囲内にあった。  古くさいということは、百も承知である。このようなかたよった価値観を、他人に押しつける気はない。始がそう自分の立場を規定し、それにふさわしい責任をはたしたいと考えているだけのことである。  始の弟たちは、長兄の判断と基本的な指示にしたがって、それぞれ与えられた責任をはたす。今回、副司令官格の続が、他の三人から引き離されている。終と余にとっては、長兄をたすけて、次兄との無事な再会をはたさねばならなかった。これは竜堂家の兄弟たちにとって、物心《ものごころ》ついて以来、ごく自然なことであった。末弟の余も、いつもいつも庇《かば》われ、甘やかされているばかりではないのである。  走りだした三人に、ようやく元気をとりもどした靖一郎が声をかけた。 「おい、いいか、君たち、私の善意を曲解《きょっかい》したりするんじゃないぞ。私はな……」 「お父さんには何もいう資格はないわ。せめてこころよく始さんたちを送り出してあげたら」  娘にそういわれた靖一郎は、完全にそっぽをむくこともできず、ぶつぶつとひとりごちた。 「どうせ誰ひとり私を理解しちゃくれないんだ。私はいつだって学院のためを思ってきた。そりゃたしかに裏目に出たことはあるが、私ほど共和学院と竜堂家の行末を心配してきた者が、他にいるか。それを何だ、寄ってたかって、私をないがしろにしおって。私みたいに地道《じみち》な人間が、社会をささえてるんだ。はでならいいってもんじゃないぞ。いなくなって、はじめて私のありがたみがわかるだろうよ。どいつもこいつも……」 「一度いなくなってみる、お父さん?」  本気で腹をたてている茉理が、半グラムの容赦《ようしゃ》もないことをいい、靖一郎は、安物の風船ガムみたいにしぼんでしまった。  始たちが飛行船の異変を知るより以前のことである。  飛行船の豪華なキャビンでは、奇怪な光景がくりひろげられていた。夢幻的なまでの美貌を持つ白皙《はくせき》の若者が、スーツの上からでも華奢《きゃしゃ》に見える身体を、太いワイヤーロープで幾重にも縛りあげられているのだ。周囲にたたずむたくましい男たちは、拳銃やサブマシンガンまで手にして、若者——竜堂家の次男である続にそなえていた。続が、低く、たよりなく聴こえる声で警告した。 「やめてください。でないと、いまに後悔しますよ……」 「こいつ、この期におよんでまだ世迷言《よまいごと》をつぶやいてやがる。口のへらない野郎だ」 「後侮するぞ、とは威勢のいい台詞《せりふ》だぜ。けっこうけっこう、生きたまま腹を割《さ》かれて胃袋をつかみ出されても、そういう台詞が出てくるかどうか、楽しみにさせてもらおうか」  ワイヤーローブで縛りあげられ、身動きひとつできない続に嘲弄《ちょうろう》をあびせる。レディLがこの若者に執着していると知らなければ、乱打をあびせて、その美しい顔を変形させていたであろう。ひとりの男が、長いコードをつけた金属ベルトを、続の頭部に巻きつけようとして、その額に手をふれた。 「熱ッ!」  小さく叫んで、男は手をひっこめた。指先に、鋭い歯でかまれたような火傷の痛みが残った。電気拷問用の金属ベルトが、音をたてて床に転がった。 「何だ、何をぶざまなことをしている?」  問いかける仲間の声がとぎれ、彼らは、口を引きむすんで、捕われの若者を見やった、続の身辺から、強烈な熱気が発散されはじめていた。白珠《はくじゅ》のような皮膚が、淡紅色に染まり、その色が一瞬ごとに濃くなりまさり、赤褐色に変じきった。  ワイヤーロープがちぎれとんだ。鋼鉄の蛇となって宙に踊る。その一本をかわしそこねた男が、両眼を強打され、ぎゃっと叫んでのけぞった。足もとに飛んできたロープから、焦熱《しょうねつ》の臭気が舞いあがり、他の男たちは声をのんで後退した。続は立ちあがった。髪から足まで赤く赤くかがやき、炭化した服地が、男たちのほうへ舞い飛んでくる。 「レディL! 危険です。近づいてはいけません」  リーダー格の男が、石を飲んだような声で四人姉妹《フォー・シスターズ》の女幹部に忠告した。だが、彼女は憑《つ》かれたように言葉をくりかえすだけである。 「ドラゴン……ファイヤードラゴン……」 「さがって下さい、レディL! こうなってはやむをえません、射殺します」  その声が、レディLの意識を現実に引きもどした。 「射殺? とんでもないわ、だめよ! 麻酔銃をお使いなさい」 「お言葉ですが、すでに大量の筋肉弛緩剤を使って、このありさまではありませんか。射殺するしかありません」 「でもキャビン内で実弾を使うのは危険でしょう」 「キャビンは防弾ですし、万が一、穴があいても、この高度でしたら大丈夫です。実弾の使用をご許可ねがいます」  レディLがなおためらう間に、状況が激変した。  絶叫がおこった。  驚愕が、男たちの心臓を直撃した。赤熱した人間の身体から、めくるめく炎が水平にとびだしたのだ。それは砲弾のように、ひとりの男に命中し、あっというまに、全身を燃えあがらせた。サブマシンガンを放り出し、床を転げまわる。声もなく立ちすくむ男たちのなかから、ふたたび絶叫がわきおこり、ふたりめの男が炎の肉柱と化して床にはねた。  レディLともあろう者が、凍結したように動けない。  いまや豪華をきわめるキャビンの内部は。猛火に彩《いみど》られ、レディLらの影は焔の動きにつれて床や壁や天井で踊りまわった。絨毯が燃え、カーテンに火がうつり、熱気は渦まいて、レディLたちを乱打した。 「ひるむな! 撃て!」  リーダーが命じたが、すでにその声はうわずっている。左右の部下が、サブマシンガンを乱射した。ヒステリックな連射音とともに、数条の弾列が炎のなかへ吸いこまれていく。だが、何ら効果はない。  続は、人間の形をした焔のかたまりとなって立っていた。深紅の焔。焔でつくられた若者の彫像。そのなかで、両眼にあたる部分が、黄金色の小さな円となってきらめいていた。  天井のスブリンクラーが作動し、水が降りそそぐ。だが、強烈な熱と焔のため、たちまち蒸発して白い霧となり、濠々《もうもう》と室内をおおった。 「あ、あれは人間じゃない……」  乗組員《クルー》のひとりが、こわれた笛のようなあえぎ声をもらした。誰ひとりその声に応じなかった。奇妙な音がすると思えば、恐怖のために歯を鳴らす音であった。  焔のなかに、何者かの影が見えた。それは、人間の形を、しだいにくずしつつあるようだった。見かわす男たちの顔に、わずかに楽観的な光が浮かんだ。すさまじい熱と焔が、それを発する者自身を害したのではあるまいか。 「やった! 奴は死んだにちがいないぞ」  かすれた声があがり、いささか音程を狂わせた歓呼が、それに応《こた》えた。あの綺麗《きれい》な顔をした化物が、踊りくるう焔のなかで焼死体となってくずれ落ちた。そう思った。というより、そう信じたかったのだ。  だが、歓呼は途中で絶叫に変わった。大量の炎がばねじかけのような速さと勢いで伸びて、彼らをつつみこんだのだ。  彼らは、ベトナムやニカラグアで、無抵抗の女子供を火焔放射器で焼き殺したことがあった。今度は彼らが生きながら焼かれる順番がめぐってきたのだ。 「ひいい……消してくれ! 助けてくれ!」  その叫びは、まだ意味をなしているほうだった。頭部を、上半身を、あるいは全身を、熱火に抱擁《ほうよう》された男たちは、意味をなさぬ動物めいた咆哮をあげながら転げまわり、もがきまわっていた。  すさまじい熱火の一撃を、レディLは回避したが、服の一部が焦《こ》げてくすぶり、皮膚は耐えがたい熱気に直面させられていた。 「こ、紅竜王……」  ひあがった唇で、レディLはあえいだ。彼女の顔は煤《すす》がついて、妖艶で力強い顔も、薄黒く汚れていた。それでも彼女には、なお女王めいた印象があった。ただ、敗北した女王である。したがう部下も、大半が熱火の剣になぎたおされて、五、六人を余すのみだ。  レディLは指揮者であり、生き残った者に退却を命じるべきであった。だが、彼女は、魅入《みい》られたように、意思を持つ焔のかたまりを見つめている。睫毛《まつげ》がこげ、眼球は熱ぶくれしそうだった。スブリンクラーの水はすでに費《つか》いはたされ、火勢はさらに強く、さらにたけだけしいものとなっていた。 「ドラゴン……まさか、ほんものの竜!?」  レディLの全身を、戦慄が駆けぬけた。  竜種といい、ドラゴンの末喬《まつえい》という。それを彼女は、あくまで象徴であり、異常な能力が存在することを神秘的に表現したものだと考えていた。あくまでも竜は架空の動物であり、現世に存在するはずはない、と信じていた。  だが、燃えあがる焔のかたまりは、いまたしかに、竜の形をとりつつあった。正視できないほど白熱したかがやきは、うねり、くねって、エネルギーから固体へと収斂《しゅうれん》しつつあるようであった。 「だめです、レディL! 操縦室へおいで下さい。あそこなら防火シャッターがありますから、ここより安全です」  服がこげ、むきだしの腕に火ぶくれをつくりながら、ついにリーダーがレディLの身体をかかえるようにして、操縦室のなかへ逃げこんだ。 「操縦室にだけは入れるな!」  どなりながら、壁のボタンを押す。きしむような音をたてて防火シャッターがおり、逃げおくれた数人の悲鳴もろとも、火を遮断した。       ㈼  火と煙を噴きあげ、よろめきつつ、巨大で豪華な飛行船は、地上へむかって高度をさげていく。  その姿は、地上を行きかう人々の注目を集めずにいられなかった。銀座で、日比谷で、赤坂で、四谷で、数十万の目が夜空の怪異を見あげ、数万の指がその原因を指さした。パトカーの警官が、あわてて警視庁に連絡する。新聞社やTV局の電話ベルが鳴りひびく。無数の目繋者が見まもるなかで、飛行船はさらにオレンジ色の焔を吐き出し、割れくだけたガラスの雨が地上へ落下して、この時点ですでに数十人の負傷者を出した。 [#天野版挿絵 ]  だが、地上のできごとにかまっている余裕など、飛行船の乗組員《クルー》にはなかった。 「あけてくれ、あけてくれえ……!」  防火シャッターをたたきながら泣き叫んでいた仲間の声がとだえると、操縦室内に残るわずかな生存者は、ひきつった顔を見あわせた。恐怖と火熱が彼らを汗まみれにしていた。 「横田基地まで飛ぶのよ!」  レディLはわめいた。せっかくの、力強さと妖しさをかねそなえた美貌が台なしになるようなわめきかたで、顔の下半分がゆがんでしまった。  彼女としては、必死にならざるをえなかった。横田基地内に着陸できさえすれば、あとのことはどうとでもなる。アメリカに対して属国根性のしみついた日本政府が、忠義づらで事後処理をやってくれるだろうし、ものを考えるということをしなくなった日本のマスコミは、アメリカ軍と日本政府の公式発表を、批判も独自調査もせず、たれ流して恥じもしないだろう。何としてでも、治外法権の場所に着陸しなくてはならなかった。  そのことは船長も承知している。  かつて、横浜市内の住宅地にアメリカ空軍機が墜落し、民間人の母子三人が死傷したことがあった。そのとき、駆けつけた自衛隊員が、パラシュートで脱出した無傷のアメリカ兵だけを運びさり、死傷した母子に見むきもしなかったのは、有名な話である。  だが、それにも、限度がある。大型飛行船が東京の都心に墜落し、数百人、数干人の人命が失われたとしたら、いかに頬《ほお》かむりが得意な日本政府でも、そ知らぬ顔をしてはいられまい。牙をぬかれたマスコミも、死火山がめざめたように騒ぎたてるだろう。  やがて船長が失意のうめきをもらした。 「だめです、レディL! とても横田基地まで保《も》ちません。新宿御苑か代々木公園に不時着します」 「せめて……せめて小金井のゴルフ場あたりまで飛べない?」  ディスプレイの画面に映る地図に視線を走らせながら、レディLはうめいた。あせりと狼狽の汗が、象牙でつくられたような額に玉をつくった。  むろんレディLが案じているのは、市民の生命ではなく、自分の安全である。東京都心部に大飛行船を墜落させるなど、失態のきわみであり、四人姉妹《フォー・シスターズ》の最高幹部たちから、失望と嘲笑を買うことになるだろう。  一国の元首でさえ、無用とみなせば平然として抹殺《まっさつ》する四人姉妹だ。レディLごときを「懲罰《ちょうばつ》」ないし処分するのに、ためらいのあろうはずはない。レディLに匹敵する才能と野心の持主は、四人姉妹の牧場に、いくらでも飼われているのだから。 「ここで失敗してたまるものか」  権勢欲の牙で唇をかみしめたとき、どおんと異様なひびきがして、操縦室の防火シャッターが揺れ、巨大なへこみが生じた。  操縦室のなかを、あらたな戦慄と衝撃が走りまわった。この防火シャッターは、核シェルターにも使用される頑丈なもので、小型トラックの衝突ぐらいではびくともしないはずである。それが、一度音をたてただけでへこんだ。あの化物はどれほどの力を持っているのか!  ショックが彼らの意識を、一時空白にした。気づいたとき、飛行船は新宿御苑を飛びこしてしまっている。  船長の視界いっぱいに、新宿西口の摩天楼群が飛びこんできた。芸術をきどった醜悪な東京都庁のツインタワーをはじめ、幼稚園児が積木《つみき》を立てたような高層ビルの群が、天へむかって光の塔を突きたてている。  ふたたび音響がして、防火シャッターが裂けちぎれた。焔と熱が操縦室に乱入してくる。 「突っこみます! これ以上、飛べません!」  船長はわめいた。高度計の針は一直線に数値を低下させ、いまや二五〇メートル近くを指《さ》している。 「なさけない、それでも男なの!?」  冷静なときのレディLであれば、けっして口にしないような不合理な台詞《せりふ》であった。彼女の絶叫に、船長は答えようともせず、操縦席を離れて床に転がり、頭をかかえこんだ。神の名と妻の名を、くりかえし呼んでいた。  レディLの足もとに、焔の人柱が倒れこんだ。私兵のリーダー格であった男だ。理性を失いかけた瞳で、レディLは防火シャッターがあった方向を見やった。焔が彼女の視界で踊りまわり、そのなかに、黄金色の燭《しょく》がふたつ、彼女を見すえているようであった。  強い衝撃がきた。キャビンは激しく上下に揺《ゆ》れ、ガラスが砕け散った、  飛行船は、東京都庁のツインタワーに突っこんでいた。最上層四八階の展望塔と。VIP専用の屋上ヘリポートを破砕し、鉄骨とコンクリートの破片をまきちらす。巨大なフットボールのように不規則にうねると。都庁ビルの壁面にそって縦に落下し、コンクリートでかためられた大地に鼻面《はなづら》をぶつけた。まるで都庁ビルに寄りそうような形で地面からそびえたが、たちまち爆発を生じて烙の巨大な柱となり、火の雨が周辺に降りそそぐ。  都庁ビルの周辺に集まっていた人々は、悲鳴をあげて後退した。だが、すこし離れた街路や広場、新宿中央公園、他の高層ビル内にいる人々にとって、これはたいへんな観物《みもの》だった。彼らが発した叫びは、恐怖ではなく興奮から来るものであった。大事故にめぐりあった幸運を喜ぶ者さえいた。 「こいつはすごいや、こんな光景、めったに見られないぜ。特等席もいいところだ」 「そのうち窓から人が落ちていくかもしれないわね。こっちの角度のほうがよく見えるわよ」  危険というものに対する感性を欠落させてしまった人々が、高層ビルの窓ガラスごしに、すさまじい光と焔のショーを見物しているのだった。たしかに、自分たちの安全さえ確保できていれば、事故も戦争も、大きいほどおもしろいであろう。  だが、むろん、危険を感じた人もいて、そういう人は、ビル内に閉じこめられることを恐れて、エレベーターに殺到した。気が短くて体力に自信のある者は、階段を駆けおりた。生き残った後で、彼らは、自分たちの判断力の正しさを確認することになるであろう。  ただし、地上は地上で大混雑である。まだいつでも逃げられる、と判断した人々が、無秩序で無責任なやじ馬と化して。街路にあふれていた。ドライバーも車をとめ、路上におりて、炎上する都庁ビルを見物している。 「おい、見ろよ、あれを……!」  そういった声が、群衆のあちこちから同時発生した。炎上する都庁ビルの最上層に、彼らは異様なものを見たのだ。それは焔のなかでさらに光りかがやいて見える、長大な動物の姿だった。 「いったい何だ、あれは!?」 「竜だ!」 「そうだ、竜だ。竜ってやつだぜ、あれは!」  そのとき、都庁ビルへむかって疾走していた一台のパトカーでも、運転役の警官が竜の姿に気づき、一瞬。前方注意をおこたった。  ブレーキをかけそこねたパトカーは、タイヤに悲鳴をあげさせながら、停車中の車の群に突っこんだ。たてつづけの衝突音に、爆発音がからまり、オレンジ色の焔が路面をおおう。火だるまになった人影が転がり出て路上にうずくまる。  だが、その惨事も、ほとんど人々の関心を惹《ひ》かなかった。皆、声と息をのみ、伝説上の偉大な神獣《しんじゅう》が都庁ビルの頂上部に坐す姿を、魅入られたように見つめていた。  深紅の竜は、にわかに巨躯をくねらせた。同時に、その全身から焔が上下、左右、前後。六方に飛んだ。  火を吐くのではない。全身から飛散させる。焔の砲弾は、一〇〇メートル近く離れた超高層ビルの中央部をぶち抜いた。ガラスとコンクリートが飛散し、熱波が、高みの見物人たちをなぎたおした。  地上には、火の滝が降りそそいだ。密集していたやじ馬たちは、悲鳴を発しつつ両腕で頭をかばい、安全な場所を求めて逃げまどった。ぶつかりあい、倒れ、もがきあう。そこへ消防車とパトカーのサイレンがかさなり、狂騒曲はさらに拡大していった。       ㈽  新宿新都心から五キロほど離れた警視庁では。刑事部長の南村が、部下の電話に、どなり声を返していた。 「なに、新宿新都心に竜が出た? ばかやろう、ひと昔前の怪獣映画をビデオで見すぎたんだろう」 「部長、南村部長」  虹川理事官に呼ばれて、南村刑事部長は、TVの画面に目をやった。そのまま絶句し、指先まで常温で凍結してしまう。炎上をつづける都庁ビルは、たしかに、竜としか呼びようのない巨大な生物をからみつかせていた。 「どういうことだ、これは!?」 「またぞろ、某国工作員と手を組んだ極左過激派のしわざじゃありませんかね。某国工作員の力の巨大なこと、何だって首相を暗殺しないのか不思議ですな」  虹川のような皮肉を、同じ警視庁の警備部は、口にしている暇がなかった。ヒステリックな指示が都内各地の機動隊本部に飛び、装甲車両が新宿に集結しつつあったのである。  隅田川河口付近から新宿新都心まで、直線距離で八キロ。国際級のマラソン選手でも二五分ほどはかかる距離を、竜堂兄弟は一〇分で駆けぬけた。しかも、最年少の余でさえ、呼吸を乱してはいない。  竜堂兄弟の体力をもってすれば、もっとも原始的な交通手段を選んだことが正しかった。この八キロの距離は、渋滞と、警察の交通規制とによって、自動車では二時間もかかり、あげくに全面交通どめとなってしまったのであるから。  新宿東口の大ガードをくぐって、竜堂兄弟は、西口の新都心部にたどりついた。一二日前のフェアリーランドなど比較にならぬ人の波だ。しかもほとんどの人間が、目と口をあけっぱなしにして、上方を見あげている。  深紅に光りかがやく長大な異形の生物が、都庁ビルのツインタワーに巻きついている。その姿を確認したとき、弟のことを思って、始の胸郭《きょうかく》の奥が痛んだ。  それにしても、紅竜の美しさにくらべ、都庁ビルの醜悪なことはどうであろう。  そもそも、都庁ビルがなぜ国際都市東京でもっとも高い建物でなければならないのか。ニューヨークでも、北京《ペキン》でも、パリでも、市庁舎が市内で一番高いビルだなどということはない。だいたい、税金で養われている公僕が、高い場所から市民を見おろすという発想が、始には気に入らない。城の天守閣から城下町を見おろす大名にでもなったつもりで、このビルを建てたのだろう。  役所の建物というものは、市民が使いやすければよい。そして中にいる公務員たちが、公僕としての自覚を忘れず、訪れる市民に親切であればよい。建物だけをりっぱにし、議員のためにフロアに大理石をはる必要がどこにあるのか。  だが、平日の夜であるだけに、都庁内にいる人々はごくすくないはずで、その点はせめてもの救いだった。始は都庁ビルへむかって前進をつづけ、終と余が、長兄の左右にしたがった。 「東半球で最大の摩天楼群」は、いまやパニックと炎の巷《ちまた》となっていた。押しあいへしあい、踏みつけ、突きとばし、どなりつけ、泣き叫び、手のつけようもない。  都庁ビルの周囲で、すでに四つの超高層ビルが破壊され炎上している。遠くから見れば、それは夜空へむかってそびえたつ四本の巨大な松明《たいまつ》に思えたであろう。その中心に、深紅の竜がわだかまり、華麗な火柱にかこまれ、天空にむかって首をのばしている。この世ならぬ光景であった。  竜堂始の左腕を、終が強くつかんだ。長兄を見あげる顔が緊張している。 「あれ、続兄貴なのかい、始兄貴」 「……ああ、他に考えようがないな」 「よかった、続兄さん、生きてるんだ」  余が、ものごとのよい側面を、ごく自然に指摘してみせたので。始はほっとしてうなずいた。ごく初歩的な事実と認識。どんな外見であろうと、彼らは兄弟であり、たがいにかけがえのない存在であるということだ。  彼らは歩を進めて、炎上現場に集まった機動隊員の群に近づいた。メガホンごしに制止の声がとんだ。 「近よるな! 近づくんじゃない!」  機動隊員たちも殺気だっている。厚く長い制服と盾《たて》の壁をつくって、群衆を押しもどそうとする。それは、群衆を危険から遠ざけようというのではあったが、まるで群衆から竜を守るように見えたこともたしかであった。  機動隊員たちの背後で、火と闇が乱舞している。小さな火のかたまりが天から落下して、地上ではじけ、音響をとどろかせた。都庁ビルに近づいた警視庁のヘリが、火の砲弾に直撃されて、墜落したのである。  竜堂兄弟が都庁ビルに近づくには、機動隊員の壁を突破しなくてはならない。ふつうの人たちなら、とうていかなわぬこどだが、かつて続が言明《げんめい》したように、竜堂兄弟にとっては、何ほどのこともなかった。  尖兵《せんぺい》役は、三男坊の終がつとめた。くせっ毛の少年は、放胆《ほうたん》な笑顔をつくって機動隊員の前に歩み出た。殺気だった隊員たちが警棒を振って追いはらおうとしたとき、少年の姿がふっと消えた。  あっ。と、機動隊員たちは夜空をあおいだ。彼らの頭上を、少年の影が飛び過ぎたのだ。終は、わずかに助走しただけで、二〇メートルの距離と五メートルの高さを飛びこしたのである。街灯の横木に両手でつかまり、さかあがりの要領でくるりと一転すると、両足をそろえて、きれいに着地した。 「竜堂終、一○・○点!」  自分自身の妙技を、そう採点してみせたが、機動隊員たちにとっては許しがたいことであったにちがいない。 「このガキがあ!」 「機動隊をなめやがって!」  口ぎたなくののしって、五、六人の隊員が追いすがってきた。同時に、彼らの背後で。機動隊の人垣が、どっとくずれた。無造作に彼らの列に割りこんできた長身の青年が、無造作に警棒を一本もぎとり、無造作に隊員たちをなぎ倒しはじめたのである。  おりから、あらたな火の滝が機動隊員たちの頭上に降りそそいできた。  わあっと悲鳴を発して、機動隊員たちは逃げくずれた。  相手が、軍事基地建設反対運動の老人であったり、原子力発電反対グループの主婦であったり、公害企業|糾弾《きゅうだん》の公害病患者であったりすれば、いくらでも強気になれる機動隊も、相手が竜だの火だのとなれば、まずわが身を守らねばならなかった。群衆もそれにつられるように逃げまどい、あとには、始に気絶させられた一○人ばかりの隊員が転がっている。       ㈿  東京都庁ビルを中心とした禁断の一画に、竜堂始、終、余の三人ははいりこんだ。火と黒煙がごうごうと音をたてて渦まき、気流は上昇して、天空へ吹きぬける強風となった。機動隊員の壁がくずれても、ここまではいりこんでくるやじ馬は、さすがに少ない。さしあたって竜堂兄弟は、行動の自由をえた。  風が巻く。熱気とともに、クズカゴや看板が宙に舞う。一〇〇〇人の機動隊員よりも、こちらのほうが竜堂兄弟を閉口させた。直線路をさけて、レンガ色の化粧タイルをはった半地下式の広場におりた。そこにはささやかな噴水があって、熱風のなかで律義に水を噴きあげている。  三人は、頭から水をあびた。火と熱から身を守るためであったが、こういう場合ながら、けっこう快適な気分になれた。べつに意識してのことではないが、どんな深刻な状況にあっても、それなりに楽しみを見つけてしまうのが、竜堂家の家風である。終と余などは、服を着たまま公然と水あびができたものだから、いい気分ではしゃいでいた。たっぷり全身に水を吸ったところで、 「よし、じゃあ終と余はここで待っていてくれ。都庁ビルにはいるのは、おれだけでいい」  始がそう言い出したのには、むろん理由がある。兄弟いっしょの原則でここまでは来たが、この先となると、危険度の想像がつかない。終と余は、竜堂家の一員として充分、義務をはたしたと思う。じつのところ、始は、最初から、最後の段階では、自分ひとりで行動するつもりだった。むしろ、ここまで終と余をつれてきてしまって後侮する気分もある。必要以上の危険を、年少組に味あわせたくはなかったし、万が一、自分が死ぬようなことがあっても、年少組のふたりは生きながらえさせなくてはならない。  だが、終は、兄の命令に納得しなかった。 「冗談じゃない。そんな命令がきけるかよ。おれもいっしょに行く」 「終! 竜堂家では、家長の命令は絶対だぞ」  長兄の声と表情が、鋭く三男坊を打って、はっと終は息をのんだ。数秒間の沈黙につづいて、ようやく反論らしいものをする。 「そんなのってないと思うな……ここまできて、それはないよ、兄貴」 「お前には、もっとだいじな役目がある。余を守れ。万が一にも、おれが帰ってこなかったら、終、お前が竜堂家の家長だ」  勇敢で大胆な三男坊が。何とも表現しがたい表情になるのを見て、安心させるように、長男は笑った。 「心配するな。おれもそう易々《やすやす》と家長の座を棄《す》てる気はないさ。いばれるし、命令はできるし、なかなかいい席だからな」 「おれに家長なんてつとまらないよ」 「やれるさ。おれだってやれた。言っとくが、おれだって一五歳のときがあったんだぞ」  お前はおれより器《うつわ》が大きいから大丈夫だ、と、心のなかでだけつけ加えて、始は踵《きびす》を返しかけた。 「始兄さん!」  余が思いつめたような声をかける。始は立ちどまって末弟を見た。ここで、「余、終のいうことをよく聞いて、いい子にしてるんだぞ」などと言うのは、あまりにも決まりすぎなので、始はそれを口にしなかった。かわりに言ったのは、ごく現実的なことである。 「ここを動くなよ。たぶんここが一番安全だ。それに、帰ってくる目標にもなるからな。そうだ、忘れるところだったが、終に財布をあずけておく」  事務的なことをすませてしまうと、しっかり者の長男は、かるく片手をあげて広場から駆け出した。その後姿に、三男坊が声を投げつけた。 「始兄貴はおれたちの保護者なんだからな。続兄貴をつれて無事に帰って来いよ。死んだって葬式なんか出してやらねえからな!」  四本の巨大な火柱をぬって、竜堂始は、巨大な紅竜と化した弟のもとへ近づいていった。ずぶぬれになったはずの髪や服が、おそいかかる熱気のために、みるみる乾《かわ》いていくのがわかる。 「都民広場」という、気色《きしょく》わるい名前がついた半円形階段状のスペースを通うて、ようやく都庁第一本庁舎のホールに駆けこんだ始は、階上へ行くエレベーターをさがした。だが、すでにどのエレベーターも停止している。ホールを照らす淡いオレンジ色の照明は、非常用電源がかろうじて生きているのだろう。  だが、始は一台のエレベーターが地下から地上へとあがってくるのを、表示ランプによって知った。ボタンを押すと、すぐにその扉が開いて、そっくりかえった中年男があらわれた。左右に部下らしい私服の男をしたがえ、制服姿の警備員もおともしている。 「誰だ、こんなところにエレベーターをとめたのは」  気品のかけらもない声で、中年男はうなった。 「私です。上へ行きたい、乗せて下さい」  いちおう鄭重《ていちよう》に、始は頼んでみた。かえってきたのは嘲笑だった。にくにくしげに、警備員が始をにらみつけた。 「君は何だね。これはVIP専用のエレベーターだよ。議員先生とかそういうえらい方たちだけが乗れるんだ。この方は、都議会の寺谷《てらたに》先生だよ」  怪物が出現した都庁ビルがどうなっているか、決死の覚悟で視察にきたのだという。地下駐車場からビルへはいったのだというが、一ヵ月後にせまった選挙で勇敢さをアピールするための猿しばいであろう。  黙然とたたずむ始にむかって、寺谷という議員は、それこそ猿のように歯をむきだした。 「身分をわきまえるんだな、君。これは君のような者が乗れるエレベーターじゃない。どうしても乗りたければ、私のように、せめて都議会議員になってからにするんだな。もっとも、何十年かかるかわからんが」  これが国民の税金によって養われている者の言種《いいぐさ》であった。年齢は五〇歳前後であろう。黒い髪を七三にわけ、左右の眉がほとんどつながっている。やせて頬がこけ、前歯が突き出て、目がくぼんでいて、選良《ぜんりょう》らしい風格などまるでない。 「おれは東京都民で納税者だ」  始の声は低く、熱雷をはらんでいた。 「だからお前らのご主人さまなんだよ! 使用人の分際《ぶんざい》で、ご主人さまにむかって無礼な口をたたくと、ただじゃおかんぞ。都民の税金で養ってもらっているくせに何がVIPだ。使用人は階段を使って上り下りしろ!」  続や終も顔色《がんしょく》がないほどの、痛烈な毒舌であった。一瞬、ぽかんと口をあけた都議会議員は、下品な顔を下品な朱色に染めてわめいた。 「き、きさま、民間人の分際で、都議会の寺谷をなめるのか。バッジの値打を知らんのだな。だったらここで教えてやるぞ」  都議会議員の名など、いちいち始は知らないが、この男は都議会では札つきの人物だった。彼の属する政党は、国会では野党、都議会では与党という無原則な政党で、原子力問題や外交、防衛政策では、保守党より右寄りといわれている。なかでもこの男は、国営放送が核戦争の被害に関するイギリス放送協会制作のドキュメントフィルムを放映したとき、「核戦争の被害を誇大に宣伝するとは何ごとだ。国営放送はソ連のスパイの巣だ」  と、都議会でわめきたてて失笑を買ったほど、無知で粗雑で非常識な人物だった。政治以外の世界であれば、とうに追放されていたにちがいない、低レベルの男だった。  議員は始のネクタイをつかんだ。ふたりの秘督兼用心棒に、「若ぞうをおさえつけろ」とわめく。暴力団員か政治家秘書以外の職業につけそうもない短髪の男ふたりが、左右から始の腕をつかんだ。相手の抵抗力を奪ったと信じた議員は、下衆《げず》な笑いで歯をむきだすと、左手で始のネクタイをつかんだまま右手を振り上げた。  始が腕を振った。  ふたりの用心棒は、一〇メートルの距離をとんで、顔から壁に突っこんだ。鼻柱と前歯をへしおられ、血の跡を壁に残して床に落下する。議員本人は、突き出ていた前歯を宙にまきちらしながら、床に横転した。始にはりとばされたとたんに失神し、泡をふき、白眼をむいている。 「ひいい……」  警傭員はあえいだ。よろめいたはずみに、倒れた議員の顔を靴で踏みつけてしまう。鼻骨のおれる音がして、鼻血が靴を汚した。  ごく静かな声で、始が命令した。 「四八階へ直行しろ」 「は、はい、わかりました、ただちに」  権力に弱い人間は、暴力にも弱い。がくがくと顔を上下させると、警備員は、エレベーターを動かしはじめた。  気絶者をふくめて三人の人間を乗せたエレベーターは、高速で上昇しはじめた。警備員は、おどおどと、長身の青年のようすをうかがっていたが、彼のことなど、始は気にとめていなかった。  うかつだった。始は侮やまずにいられない。  なぜその点に思いおよばなかったのか。続が竜に変身することがあるとすれば、それは火竜にであることを、始は予測していなくてはならなかったのに。  中国古代から伝わる陰陽五行説によれば、宇宙を構成する行(元素)は、つぎのような性格を持つ。  木行。方角は東。色は青。季節は春。星は木星。  火行。方角は南。色は赤(紅)。季節は夏。星は火星。  金行。方角は西。色は白。季節は秋。星は金星。  水行。方角は北。色は黒。季節は冬。星は水星。  そういう配置となっている。むろんこれはほんの一部にすぎず、音階、味覚、穀物、家畜、内臓、暦などにまで対応するのだが。「青春」という言葉や、北原白秋という詩人のペンネームは、この陰陽五行説にもとづく。  紅竜とは、つまり火竜なのだ。黒竜が水竜であるように。黒竜の名が炎《えん》であることは、この際、意味がない。南海紅竜王こそが、火を支配する者であるのだ。北海黒竜王の余が。水を支配し、豪雨を降らせるように、南海紅竜王の続は、火を支配する。その力は、何十万人もの人が直接、見たとおり、新宿新都心を潰滅《かいめつ》させてしまうほどのものだ。あるいは、さらに巨大であるかもしれない。何とやっかいな弟たちを持ったものだ、と、始は長兄らしい気苦労を禁じえなかった。 「……しかし、余が水竜で続が火竜だとすると、終が金竜で、おれが木竜か? どうも、あまりさまにならんなあ」  このような場合に、このようなことをつい考えてしまうのが、始らしいところであろう。それを自覚して、彼は苦笑したが、警備員にはその表情が、人食い虎の徴笑に見えたらしい。腰がくだけかかるのを必死でこらえて、両眼は恐怖と哀願《あいがん》の色を浮かべている。  頼むから、「自分には姿と子供がふたりいて母は病気で、マイホームのローンが一五年」などと言い出さないでくれよ。始がそう思ったとき、がくんと揺れてエレベーターがとまった。四八階にはまだほど遠い。安全システムが働いて、これ以上危険な場所へ行けなくしてしまったのだ。  警備員が、歯の根もあわぬ声をしぼりだした。 「も、もうこれ以上、エレベーターではあがれません。いえ、私のせいじゃありません、機械が動かないのです、許して下さい」 「わかってる。開《あ》けろ、外に出るから」 「……い、生命《いのち》だけは……」 「心配するな、出るのはおれだけだ。おれが外に出たら、あんたはさっさと逃げ出すんだな」  始がエレベーターからおりたのは、三三階、特別会議室とやらのフロアだった。両手に、上下のスーツとシャツをかかえているのは、気絶した都議会議員からはぎとったものだった。  余が富士山麓で竜に変身したときもそうだったが、今夜の続も、衣服を失っているだろう。弟に対する気づかいだった。上着とシャツはともかく、ズボンは、続にとって短かすぎるだろうが、これはしかたない。  三八階まで上ると、熱気は耐えがたいほどになり、白煙が霧のように濃くなる。この階で、天井のスプリンクラーが狂ったように水をまきちらしているのに気づくと、始はあらためて頭から水をあび、議員から拝借した服にも水を吸わせた。始の、こげる寸前の服から白い湯気が立つ。  乾季の植物のように水をあび終わると、始は、火と煙が荒れくるう無人の階段を、さらに上りはじめた。 [#改ページ] 第十章 終りよければすべてがよいか       ㈵  熱と光と焔は、始にむかって、シャワーのように降りそそいできた。さらに白と黒と灰色の煙が、陰湿な攻撃をかけてくる。だが、それを無視するように始は上へ上へと進みつづけた。 「もしおれが、ほんとうに東海青竜王|敖広《ごうこう》であるとしたら、こんなことで焼け死ぬのは、お笑い種《ぐさ》というものだな」  そう思うのだが、熱いことは熱い。紅竜に変化《へんげ》した続は、熱を感じているのだろうか。ざっと目測したところ、竜体の長さは一〇〇メートルをこしていたようだ。身長一八○センチちょうどの続が、どんな法則によって、肉体を膨張させ、変形させるのか。超自然のメカニズムであっても、そこに何らかの法則があるはずではないか。それとも、あるいは逆なのだろうか。竜体、竜形こそが彼らの本身であって、人間の形は仮のものにすぎないのだろうか。何日か前に続が言ったように。 「続! 返事をしろ!」  何十度めの叫びであったか。もう始はおぼえていることができなかった。常人であれば、声を出すどころか、とうに火と煙に巻かれて死んでいるところだ。だが、始は、階段を上りつづけ、最上階へと近づいていった。  スプリンクラーがむなしく作動をつづけているフロアでは、始はかならず自分の身体と、かかえた服に水を吸わせた。人を助けるには、自分自身が助からなくてはどうにもならない。  四三階、無線機械室のフロアでは、無用の長物であるネクタイを火中にすて、水を吸わせた上着を頭からかぶった。服装などにこだわらずにすむのは、いっそありがたいくらいのものである。  議員の服もたっぷり水につけ、それを小脇にかかえて、さらに始は階段を上りつづけた。彼は頑固《がんこ》者だった。彼がこうと決心したからには、誰もとめることができないのだった。  四七階まで達したとき、どおん[#「どおん」に傍点]と腹にひびく音がした。始は、頭上に巨大なエネルギーの放出を感じとった。爆風と炎が吹きつけ、始は足を踏みはずした。コンクリートに赤いカーペットが敷かれた階段を転げ落ち、踊り場でようやくとまった。なお議員の服を手離さない始が頭上を見あげると、火と煙のむこうに、星のない濁《にご》った夜空が見えた。落下するコンクリートのかけらが始の全身をたたいた、あきれたことに、ドラゴンの末裔《まつえい》は、わずかな痛みを感じただけである。 「続!」  焔か熱か光か、強烈なエネルギーが、始にむかって吹きつけてくる。紅竜が、前肢《まえあし》の一撃で、ビルの最上階を撃砕《げきさい》し、吹きとばしてしまったのだ。役人どもが特権意識を満足させるために、必要もないのに税金を投じてつくらせたヘリポートは、完全に破壊されてしまった。  そして、始は、ようやく巨大な紅竜の姿に接することができたのだ。それは物質というよりエネルギーの固形化したものに思われた。 「続、か……?」  低声の問いかけは、熱風によってさえぎられた。竜の身体は深紅であったが、そこから発する光にはリズミカルな脈動があり、全体の色彩が濃くなったり淡くなったりする。そして身体には首がついているのだ。  黄金色の瞳が、始を見すえている。すくなくとも。始にはそう思われた。その瞳は表情を欠き、かわりに、磁気的な吸引力を持っているようである。始は目が離せなくなった。魅入られたようになった。それでいて、奇妙な冷静さが彼の脳細胞を支配していた。  なすべきことを、始は心得ていた。この巨大な竜、彼と一九年間つきあってきた弟である紅竜を、人間の形にもどし、服を着せ、家につれ帰るのだ。一五年前だって、彼は同じことをしたのである。八歳のとき、始には長兄としての義務感とともに、誇りがあった。自分にしか、弟を守る役はつとまらないのだと思った。それは現在も同じだった。 「続、さあ、家に帰るぞ」  始が呼びかけたとき、紅竜は、長大な身体をぐっと伸ばした。  またしても、紅竜の巨体から、焔が飛散した。焔のかたまりが、ロケット弾のように高速で飛ぶのだ。すでに焔の柱と化した隣の超高層ビルに。他のビルに。路上に。新宿中央公園の森に。火焔弾はつぎつぎと落下し、さらにあらたな焔を燃えあがらせた。  新宿駅西口一帯は、火の海と化している。始たちの母校である共和学院の敷地にも、火の粉が侵入してきた。都内各処から数百台の消防車が駆けつけ、必死の消火活動をおこなっているが、生命がけの努力もほとんど報われなかった。  天井と壁を失ったフロアで、閣と光の狂乱を、始は見た。 「やめろ、続!」  片手を伸ばして竜体に触れた。灼熱《しやくねつ》感が走って、反射的に始はその手をひいてしまった。同時に灼熱感は去っている。  始は自分の両方の掌《てのひら》を見た。焼けただれているはずの掌に、銀色のかがやきがある。光を受けた宝石のようにかがやく鱗《うろこ》が、掌に浮きあがっていた。 「竜王の証《あかし》か、これが……」  不可侵にひとしい防御力を、それは象徴するのだろうか。あまりありがたいとは、始は思わなかった。この際に必要なことは、竜体となった弟と、どのように意思をかわしあうか、その方法であった。兄として語りかけるしかないのか。だが、それにしても時間がないように思われる。ここまで来て、始の前には、困難の見えない壁が立ちぶさがったようであった。  永田町の首相官邸、霞が関の警視庁、六本木から市谷《いちがや》に移転した防衛庁。八月三日の深夜に、東京でもっともいそがしかったお役所は、この三つである。むろん、実際に必死の活動をしていたのは、まず消防署なのだが、東京の治安を維持する統轄《とうかつ》指揮本部は、これら三者のトライアングルにあった。  首相、防衛庁長官、警視総監の三者が、二九インチのTV電話画面を通じて、悲壮な、あるいは悲壮ぶった会話をかわしていた。警視総監の上位者である国家公安委員長は、四国の選挙区に帰り、有力な後援者たちと、芸者遊びの最中だった。いまひとり、首相の横に青ざめた顔を並べているのは、能吏《のうり》として知られる東京都知事だった。彼は急報を受けて、石神井《しゃくじい》の自宅から飛んできたのだが、自分の「城」にはいることができず、しかたなく首相官邸に身をおいているのである。 「機動隊の手におえるような状態では、もはやありません。自衛隊を出動させるべきです。このようなときのための自衛隊ではありませんか。一度使っておけば、今後、いくらでも使えますぞ」  防衛庁長官の雁原《かりはら》が首相を煽動《せんどう》する。「国防より市民生活がだいじ、などという人間は、頭がどうかしている」と広言したことがある超タカ派である。名刺に「日本国元帥」と刷《す》りいれて失笑を買ったこともある男だ。  だが、実際問題として、自衛隊の出動は可能だろうか。六月、東富士演習場で発生した奇怪な事件——竜の出現と豪雨によって、東京駐屯の陸上自衛隊第一師団は人員と装備に大きな損害をこうむり、ほとんど無力化してしまった。必死の情報統制によって、ジャーナリズムと国民には、実際よりはるかに少ない被害しか出なかったようによそおうたが、事実それ自体を縮小することはできなかった。一個大隊分の自衛官が訓練中に殉職してしまい、生き残った者も、大部分はショックのために兵士として役だたないありさまである。いや気がさして除隊を申し出る者を、おどしたりすかしたりして引きとめているところなのだ。  いっこうに煮えきらない首相を見やって、内心で舌打ちした防衛庁長官の雁原が、にわかに声をひそめた。 「ところで、総理、ご存じですか」 「な、何をかね」 「米国大使館と在日米軍司令部の動きが奇妙です。どうも何やらこの件に関係がありますようで……」 「そ、それはまずいよ、君」  首相はうろたえ、いつもよりさらにかんだかい声を、音量だけは低くした。 「米軍がらみじゃあまずいよ。まずいよ、君、何とかならんかね。こまったな。国民に知られたらまずいよ。こまるじゃないか」  内容のない台詞《せりふ》をくどくどとつづけるのだった。       ㈼ 「歩く無定見《むていけん》」と称される首相が、自衛隊出動の断を下したのは、八月四日一時二〇分のことである。彼は、第二次大戦後はじめて自衛隊に治安出動を命じた首相になったわけだ。そんな役はごめんこうむりたかったのだが、このまま手をつかねて新宿炎上を放置しておいては、いずれ責任を問われることになるだろう。「国民の皆さまとともに深く反省し。未来を見すえ。現実に立ちむかう所存であります」などと内容ゼロの所信表明をおこなっても、今度ばかりは通用しない。大新聞の政治部記者に、高級ワイシャツ券を贈る手口も、もうだめだろう。  防衛庁長官は大いにはりきり、ただちにジープ、無反動砲、バズーカ砲などの出動が決定された。首相が閻いかけた。 「武装ヘリは出動させられんのかね、一機何十億円もするんだろう?」  能力を、金銭にすぐ換算《かんさん》するあたりが、首相らしいところであった。 「あの風と煙では、ヘリはとても役に立ちません。まず地上から攻撃し、それでだめなら航空自衛隊のジェット戦闘機を出動させることになるでしょうな」 「風ぐらいで役に立たなくなるものに、何十億円もかけたのかね。いくらアメリカさんから押しつけられたといってもねえ、もったいないね」  首相は不満そうだった。 「それにしても、損害は、いくらぐらいになるかね」  どこまでも金額を問題にする首相である。 「都庁ビルだけで一五〇〇億円近くかかっておりますからな。何やかやで一兆円ぐらいにはなるでしょう。それも金銭面だけのことです」  都知事が、感情をおしころして答えたとき、首相秘書官の西山千秋《にしやまちあき》が、さかしげに首相に語りかけた。 「ところで、総理、何千人も死者が出ては、生命保険会社がたいへんでしょう。これはもう、天災に準じて、保険会社の保険金支払義務を緩和《かんわ》するよう特例|措置《そち》をおとりになるがよろしいかと」  保険会社の団体は、首相にとって重要な資金源である。秘書官の進言《しんげん》に、一も二もなくうなずきかけた。 「君、君、それはちょっと……いまの時点で持ち出す話ではないんじゃないかね」  口をはさんだ都知事の声が、かくしきれない怒りにひきつった。この政治屋どもにとっては、都民の生命や公共の財産より、自分たちの資金源である企業に恩を着せることのほうがだいじなのだろうか。  首相は、青年時代、国会議員になって何をやるのか、と、友人に問われ、「そんなことより。とにかく国会議員になりたいから、よろしく頼む」と答えたというエピソードの持主である。  都知事は、首相より年齢も上であり、東京大学法学部を卒業して、官僚としては自治省事務次官にまで上りつめた。学歴でも行政能力でも、そして教養でも自分のほうが上だと信じているし、またそれは、だいたいにおいて事実であった。  都知事も、神のごとく清らかというわけではない。都庁舎ビル建設の入札《にゅうさつ》をとりおこなう際には、大手の建設会社が、談合の疑惑をささやかれている。それなりに利権あさりもやっているのだが、すくなくとも首相よりはひかえめであったし、時と場所ぐらいはわきまえていた。 「ああ、とにかく、事後処理は、あらゆる方面でたいせつなことだ。万事、手ぬかりがないようにな」  あいまいな、それだけに狡滑な返答を首相がしたとき、都庁ビル炎上現場から報告がはいって、生存者の救出を告げた。都議会の札つき議員である寺谷が助けだされたのである。  ようやっと助けだされた寺谷は、生命はとりとめたものの、いい笑いものになってしまった。人前に出てきたとき、鼻はつぶれ、前歯は折れ、顔じゅう血がこびりつき、そこまでなら同晴もしてもらえたのだろうが、ランニングシャツと縞パンツに靴下と靴だけの姿で、上着もズボンもシャツも失っている。意識をとりもどしたとき、地下駐車場におりたエレベーターのなかであった。警備員はとうに逃げ出しており、寺谷はふらふらと外へ出たところを、機動隊員に発見されたのであった。  寺谷はVIP用の救急車で新宿東口の病院に運ばれたが、意味不明のことを口走り、しばらくは再起できそうになかった。  そんなことは、ささやかな笑劇《ファルス》であるにすぎない。一般の負傷者たち——市民、警官、消防官らは、血まみれの姿を路上に横たえ、フル回転の救急車が彼らを運んでくれるまで、苦痛に耐えて待っていなくてはならなかったのだから。  ほとんど無傷のまま、この世のものとも思えぬ光景をなお見物している幸運な群衆のなかに、虹川《にじかわ》と蜃海《しんかい》、ふたりの共和学院OBがいた。虹川が警視庁のビルを出かかったとき、蜃海が駆けつけてきて、以後、同行していたのである。彼らの母校のことも気になって。現場までやってきたのだ。 「おい、虹川さんよ」 「何だね、蜃海さん」 「ちょっと、いまな、奇妙なことを思い出していた。おれたちの名前のことについてな」 「どんなことだ」 「虹川の虹、蜃海の蜃、こいつは何を意味すると思う?」 「虹はにじ[#「にじ」に傍点]だろう。蜃ははまぐり[#「はまぐり」に傍点]だろう、海に棲《す》む貝の。わかりきったことじゃないか」 「ところがそうでもないんだな。虹も蜃も、もともと仮空の動物でな」  蜃海は、声を低めた。 「どちらも竜族の下っばで、つまリドラゴンの手下なんだそうだ」  虹川は、無言で、かつての同級生を見やった。大男で童顔の虹川を見返しながら、蜃海はさらに声を低めた。 「おれたちの学院長は、竜堂といったよな、おぼえてるだろう、竜堂兄弟の祖父だぜ」 「何をいまさら……」  舌打ちした虹川が、どことなく落ちつかない表情で、横目つかいをした。 「それがいったいどうしたというんだ。どうも思わせぶりなことを言うじゃないか」 「いや、ただ思いだしただけさ。だからってどういうわけでもないんだがな。それより、見ろよ、いよいよ米ソにつぐ世界第三位の軍隊のお出ましだぜ」  自分で自分の困惑を切りすてるように、蜃海は話題を転じた。  彼らの前を、自衛隊の列が通過していく。無反動砲やバズーカ砲を搭載《とうさい》したジープやトラックが、走りすぎていく。事態がここまで悪化したからには、それはむしろ当然、予想される光景だった。  ところが、このとき、代々木公園では、当然とも思われない光景が展開していた。在日米軍の輸送ヘリが強引に着陸し、三○人の武装した兵士を分乗させた六台のジープと二台のトラックが、炎上する新宿西ロへと走り去ったのである。 「終兄さん、あれ、自衛隊だよ」  末っ子が三男坊に報告した。噴水近くの石段に腰をおろしていた終は、姿勢を変えて。弟の報告を確認し、舌うちした。 「何てこりない奴らだ、またやられに出てきやがった。国民の税金を、いくらむだ使いしたら気がすむんだ。そんな余分な金銭《かね》があったら、すこしおれによこせ」  この台詞《せりふ》は、前半が長兄の強い影響を受けていて、後半はオリジナルである。顔の上半分だけ地上に出して、ふたりが見守っていると、火や煙のなかに、つぎつぎとジープやトラックがとまり、自衛官たちがとびおりてくる。BGMがないのが残念なほど緊迫した光景、であるはずだった。 「しかしまあ、昔の怪獣映画みたいな光景になってきたな。でも、まあ。そのほうがおもしろいや」  待機を命じられたのは残念だが、長兄の命令には。拡大解釈の余地がある。じゃまな奴らが近づいてきたら、カずくで排除すればいい。無抵抗主義は、竜堂家とは無縁のものだ。 「無抵抗主義のマハトマ・ガンジーは偉大だ。でも、おれたちは偉大じゃない。まねてもむだだ」  と。長兄の始が、いつか言ったことがある。全面的に、終はその意見に賛成なのであった。  じっと自衛隊の動きを見まもっていた余が、兄にむかって提案した。 「都庁ビルに行ってみない? 終兄さん」 「だめだ。ここにいろ、と、始兄貴の言いつけだぞ」 「でも……」 「あのな、余、柄《がら》にもない説教を、おれにさせるなよ。始兄貴は続兄貴だけで手いっぱいなんだ。おれたちまでめんどうかけちゃ、申しわけないだろ」  たしかに柄にもない説教だなあ、と、余は思ったが、口に出しては「そうだね」と応じた。 「そうだろ。おれたちがぶらさがってるもんだから、気の毒に、嫁の来手もない。おれたちが一人前になったら、とかいってるけど、余が大学を出るまで九年はかかる。そうしたら、始兄貴は三○をこしちまう。茉理ちゃんだって、いつまでも待ってはくれないだろうし……」  途中から話がそれてしまったことに気づいて、終はせきばらいした。 「とにかく、ここにいなきゃだめなんだ、わかったろ」 「でも……」 「またでも[#「でも」に傍点]か。何だよ」 「ばれなければいいと思わない?」  この大胆な教唆《きょうさ》に、まばたきして、終は弟の顔を見なおした。 「余、お前なあ」 「ごめん、やっぱり始兄さんのいいつけは守らなきゃならないね」 「何でもっと早く言わなかったんだよ!」 「え……?」 「そうだ、ばれなきゃいいんだ。ここにいても埒《らち》があかないしな。兄貴たちに見つからないよう、近づこうぜ」  認識と決断と行動との間に、1ミリの隙もない。念のため、もう一度、噴水にとびこんで全身をぬらすと、終は都庁ビルへむかって走りだした。身をかがめ、片腕で弟の身体をかばいながら、それでも一〇〇メートルを七秒ジャストで駆けぬける。半地下式の都民広場に飛びこむと、もう身をかがめる必要はない。 「それにしても続兄貴、そろそろ鋒《ほこ》をおさめてもらいたいもんだ。赤坂、原宿、六本木あたりは、おれたちの番のときに残しておいてくれなきゃ」  とんでもないことを、終は口にした。       ㈽  着弾が都庁ビルを揺るがせた。すでに炎上しつづけるビルは、ロケット弾や無反動砲弾の無慈悲な攻撃の前に、うめき声を発し、二五〇メートルの長躯《ちようく》をふるわせて抗議した。むろん自衛隊が攻撃しているのは、都庁ビルではなく、紅竜である。だが、軍事行動において、攻撃目標の周辺が損害をこうむるのは当然だ。  始は震動する床を踏みしめて転倒をさけた。 「冗談じゃない、おれに砲弾があたったら、おれも竜になってしまう」  そんなことになったら、木竜は火竜とともに、新宿新都心にとどまらず束京全体を破壊してまわるかもしれない。もっとも、木竜とやらがどのていどの破壊力や破壊方法を持つのか、始は知らない。知りたくもなかった。  コンクリートが、ガラスが、花崗岩《かこうがん》が、鉄骨が、吹きとばされ、飛散し。爆風と轟音のなかを落下する。階段上から、壁や天井の一部が火の粉とともに終と余に降りかかってきた。  終が余の身体におおいかぶさって、火の粉やさまざまな破片から弟をかばった。煙と埃《ほこり》を吸いこんで、せきこんでしまう。 「生きてるか、余」 「ありがとう、大丈夫だよ。それより早く始兄さんたちのところに行こう」 「そうだな、いそごうか」  ふたりの行動には、じつは根本的な矛盾《むじゅん》があるのだが、そこまではふたりとも考えなかった。立ちあがり、たがいの埃をはらって、ふたたび階段を駆けあがりはじめる。 「考えてみると、美しい兄弟愛だよな、おれたちって。竜堂兄弟物語って映画ができてもいいくらいだ」  終が、軽口をたたきながら階段下をかえりみた。するどい聴覚が、複数の人声と足音をとらえたのだ。いよいよ自衛隊が突入してきたらしい。とすれば、ますますいそがねばならなかった。  三男坊と末っ子が、二〇階あたりの階段で障害物競走をやっている間、長男のほうも、それに近い状態にあった。  始の足もとの床がふいに消えた。くずれ落ちたのだ。始は、片腕で議員の服をかかえたまま、片腕を穴の縁にかけて、下のフロアへ転落するのをまぬがれた。ふうっとひと息ついたとき、コンクリートの重いかたまりが落ちてきて、彼の頭に命中し、音をたててふたつに割れた。それが身体の左右に別れてさらに落ちていくのを見ながら、始はぼやいた。 「たまらんなあ、今夜だけで何度死んだかわからんぞ。おれが健康だったからいいようなものの……」  健康だの丈夫だのというレベルの問題ではないのだが、とにかく始は、片腕一本で自分の長身を床の上に引きずりあげた。  これ以上、手間どってはいられない、と、始は思った。被害が増える一方である。弟を竜体から人体へ引きもどすため、彼は実力行使をすることに決めた。東富士演習場で、竜体と化した末弟の余が、人体にもどったきっかけは、船津老人が掌底《しょうてい》から放ったエネルギーを受けたことだった。「気」がどうとか老人は語ったが、要するに、生体エネルギーの放出によって、変身機能の核を刺激するのだろう。その技を。船津老人は、中国奥地の「竜泉郷」で学んだのだろうと思われた。  船津老人にできて、自分にできないはずはない。このような精神論を、ほんとうは始はきらいだったが、この際、頼るべきものが他になかった。竜種の血を飲んだにすぎない船津老人にさえできたのだ。真の竜種である始にも可能なはずだった。 「続!」  始が肺活量のかぎりをつくして叫ぶと、それが聴こえたかのように、紅竜が、もちあげていた首をおろした。  始は議員の服を放り出し、眼前にせまった竜の頭部から身をかわすと、竜の左の角を両手でつかんだ。灼熱感が痛覚となって全身を走ったが、こらえて、手を離さない。呼吸と心臓の鼓動をととのえ、目をつぶり、精神的なエネルギーを集中させる。さらに集中させる。何秒、あるいは何十秒たったか、何か爆発するような無形のものが。始の全身を貫通した。  強烈なエネルギーが、始の掌《てのひら》から竜の角へ伝わった。小きざみの、激しい慄えが、竜の鱗《うろこ》の下を走り、波うって全身に伝わっていく。  できた! そう思ったとき、始の身体は、異常な力で宙に持ちあげられていた。上方へ落下する[#「上方へ落下する」に傍点]。天井にたたきつけられる寸前、身体を丸くして衝撃を小さくしたが、それでも一瞬、呼吸がとまった。ひびがはいった天井から、今度はまともに、下へむかって落ちる。両脚をかがめ、勢いをころした。反転して立ちあがる。  自分が放ったエネルギーの効果を、始は確認した。それは竜となった続の、変身をつかさどる生体機能の核をつらぬくことができただろうか。これが失敗すれば、もう始には、弟をもとにもどす手段は残されていなかった。  始は、床に落とした議員の服をひろい、声をのんで、変化が生じるのを待ち望んだ。  すこしずつ、すこしずつ、光と熱が弱まっていくように、始には感じられた。いや、感じだけではなく、たしかに弱まっている。  すべてが、収斂《しゅうれん》へとむかっているようであった。膨大なエネルギーの触手が、中心核へとしりぞいていく。竜の輪郭は、すでに失われていた。深紅の色彩も、一瞬ごとに薄れていき、オレンジ色めいた光が点滅するなかで、何か形状のはっきりしないものがわだかまっているように見える。  それはおぼろげな人の姿になり、輪郭をしだいにはっきりさせていった。赤いヴェールが徐々にはがされ、他の色彩が回復されていく。茶色っぽい髪と、白皙《はくせき》の肌が、本来の色あいをとりもどしてきた。駆けよると。その両肩をつかんで、始はゆすぶった。 「続、続、おれだよ、わかるか」  兄の声がとどいたようだ。片脚を伸ばし、片ひざをたてて壁ぎわにすわりこんでいた若者が、頼りなげな声を出した。 「兄さん……」 「気づいたか、続!」  兄の声にうなずきはしたものの、頭を振って掌を額にあてる続のようすは、まだ完全に夢魔から解放されていないことをあらわしていた。瞳にも、まだ霞がかかっていたが、急速にそれが晴れると、理性と知性が回復して、沈痛な光にとってかわられた。 「そうか、ぼくは竜に変身したんですね」 「うん、まあそんなところだ」  芸のない返答を、始はした。続が深い息をついた。 「ずいぶん人を死なせたんでしょうね、記憶がない間に……」 「お前のせいじゃないよ。お前を変身させた奴が悪いし、みすみすお前を行かせたおれがばかだった。だから気にするな。気にしたってどうにもならんのだから」  じつのところ、それですむわけはないのだが、この場合、ゆっくり反省したり後悔したりしているひまはない。  他になぐさめようもなく、励《はげ》ましようもなく、それだけ言うと、始は、弟に都議会議員の服を差し出した。 「これを着ろ。サイズがあわんだろうが、この際しかたがない」  兄の手から服を受けとると、続は、てれたようにくすりと笑って、くしゃくしゃになった服を広げてみた。 「ほんとだ、上着はともかく、ズボンがね。裾は短いし、ウエストがだぶだぶですよ。ダンディとしては悲しいな」 「どうやら調子がもどってきたな、けっこう、けっこう」  いそいで続は服を身に着けた。  サイズのあわない服を着て、画足は裸足《はだし》、髪も乱れている。それでもなお、「身分を隠して変装した王子さま」という印象を与えるのは、桁《けた》ちがいの美貌がもたらす功徳《くどく》であろう。  とにかく。これで人間としての形はととのったので、つぎは、いかにしてこのビルから逃げ出すか、が問題となってきた。  なぜか、自衛隊の砲撃もやんでしまったようだ。始も続も、人間の姿で空を飛ぶことはできないはずであるから、どのみち地上までおりなくてはならなかった。  ややおとろえかけた火と煙のなかを、始と続は、階段をおりていった。 「気をつけろよ、続、足の裏をけがしないようにな」 「大丈夫ですよ、兄さん、ぼくはもう子供じゃありませんよ」  一○年以上前のことを思いだしたように、続が応じたとき、踊り場に人の姿が見えた。始と続がばったり顔をあわせたのは、終と余だった。感動の再会であるはずだったのだが、残念なことに、いっこう涙ぐましくなかった。終と視線がぶつかったとたん、竜堂家の若い家長は、どなりつけた。 「こら、お前ら! 噴水広場で待っているよう言いつけておいただろうが。家長の言いつけを守れないような奴には。明日、庭の草むしりをやらせるぞ」 「そんなこと言ってる場合じゃない! 自衛隊が突っこんでくるぜ」 「呼んだおぼえはない」 「呼ばなくても来るんだってば!」 「来たよ!」  余が叫んだ。階段から、武装した人影が躍りあがってきた。毒々しい緑のベレー帽をかぶり、迷彩服を着こみ、自動小銃をかまえ、青い眼をしていた。始が指先であごをつまんだ。 「自衛隊は、いつからプロ野球チームみたいに外人さんを傭《やと》うようになったんだ?」 「外貨準傭高が世界一になったあたりからでしょう」 「出かせぎの外国人には親切にしてやりたいが、どうも、今回は例外みたいだな」 「どうする、兄貴。何かさ、こう、すごくいやな目つきでおれたちを見てるぜ」  始は、ふいに、にやりと笑った。 「はでにやっていいぞ、終」 「ほんと!?」 「かまわん。こんなところにアメリカ軍がいるわけはない。どんな合法的な理由にてらしても、ありえない。こいつらは存在しないんだ。おれたちの幻影さ。だから何をやってもいいそ」  辛辣きわまる始の論法である。このアメリカ兵たちが、何かよからぬ命令を受けてビルに侵入したことは明らかであった。当然、目撃者を生かしておくはずもない。とすれば彼らに遠慮する必要などないのだった。  アメリカ兵のひとりが進み出、終にむけて銃身を降りおろした。打撃は風を切ったが、終の目には、スローモーションのように見える。かるくバックステップしてそれをかわすと、つんのめった兵士のあごに、終は拳《こぶし》をたたきこんだ。あご骨のくだける音がして、兵士はくずれ落ちた。  乱闘のはじまりである。  いったん入りみだれると、アメリカ兵たちは、銃を発射するわけにいかなかった。銃身、戦闘用ナイフ、それに彼ら自身の肉体を武器として、竜堂兄弟を床に打ちたおそうとした。妥協は最初からありえなかった。おそらく、アラブや東南アジアやラテンアメリカで、アメリカ合衆国の正義のために、殺人や破壊をかさねてきた、武断的愛国主義のエキスパートたちだろう。彼らが三〇人も集まれば、素手の民間人四人など、一分で解体してしまえるはずであった。  だが、むろんそうはならなかった。骨をくだかれ、絶鳴を放って横転するのはアメリカ兵のがわであった。胃をおさえて血へどをはき、顔をおさえてのけぞり、ナイフを持ったままちぎれかけた腕をかかえてへたりこむ。ついに三〇人の兵士たちは服を着たハムのように床を埋めつくした。ただひとり残された指揮者の将校が、冷汗と悲鳴をとばして、拳銃に手をやったとき、始のバンチがとんだ。  将校は顔面を血のかたまりに変えて吹っ飛んだ。床に倒れた部下たちの頭上を飛び、壁でバウンドする。床にうつ伏せに倒れて動かなくなってしまった。  それから一〇分後。  煙がたちこめるなか、都庁ビルの地下駐車場から、一台の軍用ジープが走り出た。四人のアメリカ兵が乗っていたが、いずれもヘルメットを目深《まぶか》にかぶっており、なかのふたりはアメリカ兵にしては小柄で、軍服がだぶついていたという。自衛隊も機動隊も、米軍の行動をさまたげないよう厳命されていたので、いささか不審に思いはしても、阻止《そし》したり。とがめたりすることはなかった。  都庁ビルの内外に散乱していた約五〇体のアメリカ人の遺体と、ただひとりの生存者は、第二次出動をおこなった米軍によって回収された。自衛隊および警察には箝口《かんこう》令がしかれ、ジャーナリズムおよび国民に、事実は知らされなかった。  後日、陸上自衛隊では上官にむかってひとりの士官が言ったものである。この若い士官は、日ごろから、「何で花の六本木から市谷みたいに殺風景な場所に移転するんだ。ガールハントもままならん」などと放言している男だったが、このときの毒舌はひときわとげとげしかった。 「あやしい四人組をなぜとらえなかったなんて言われましてもね。米軍が来たらいっさい手を出すなといわれましたので、命令にしたがっただけです。まさかねえ、世界最強の米軍が負けるなんて、思いもしませんやね。それにしても、いったい誰と戦ったんでしょうねえ」       ㈿  在日米軍横田基地の正面ゲート近くに、黒塗りの高級乗用車が停車していた。後部座雇はスモークガラスばりで、車内をのぞきこむことはできない。そうでなくとも、時刻は夜中であり、高級車の前後はごついランドクルーザーにはさまれ、酷薄な顔つきの男たちが周囲をにらみつけているとあっては、のぞきこむ者などいるはずもなかった。  高級車の内部で、食用蛙がうめくような声がした。 「ふん、毛唐女が、ずいぶんとえらそうな口をたたきおって、ざまはない。とんだ夜なべの待ちぼうけになったわい」  カーTVのスイッチを切って、蛙腹《かえるばら》を波うたせた老人は、マッド・ドクター田母沢《たもざわ》篤《あつし》であった。このとき、老人は、食用蛙というより。餌を丸のみしてふくれあがった毒蛇のように見えた。 「まあ、しかたない。楽しみには、それをかなえるための苦労も必要だて。そもそも、あんな女にまかせたのが、わしの不覚じゃった。成功したところで、どんな取引をせまられたか、わかったものではないわ」  老人は、運転席の背もたれを、樫《かし》のステッキでこづいた。動きだした車のなかで、老人は両眼をとじ、竜堂兄弟を手術台にしばりつけて生きたままその身体を切りさくという楽しい空想に身をゆだねた。 「粗雑なヤンキーなどにまかせてはおけん。やはりわし自身の手間をかけねばなるまいて。げふふふふ……老後のよい楽しみじゃわ」       ㈸  哲学堂公園の北にあるわが家に、竜堂兄弟がたどりついたのは、八月四日午前四時二〇分である。途中、ジープを乗りすて、深夜の街を歩いて帰った。この夏三度めのことである。  古い家だが、電気温水器を使っていて、お湯はすぐに沸く。浴室の広さも、ふつうの家の三倍ほどあって、四人が一度に入浴できるのがありがたい。  始は三人の弟を先に入浴させ、自分は居間のTVのスイッチを入れた。不意の襲撃にそなえたのだが、ニュースを見たくもあった。  どのTV局でも、深夜の緊急ニュース番組を放映したが。やはり芸能ニュースなみに切りこみが浅く、やじ馬根性むきだしに騒ぎたてるだけであった。  半ば失望し、半ば安心して、始はアメリカ軍兵士の服を裏庭の焼却炉に放りこもうとした。だが、気が変わった。アメリカ軍が動きだした以上、これらの軍服が役に立つこともあるかもしれない。軍服を物置にしまって、家のなかにもどると、鴉《からす》の行水《ぎょうずい》族である終と余が。もう風呂からあがって食堂で麦茶を飲んでいた。始は三弟と末弟にむかって肩をすくめた。 「これほど騒々しい夏休みははじめてだ。もうちょっと平和に暮らしたいもんだな」 「始兄貴、そうぼやくなよ。結局、みんな無事だったんだしさ。いろいろあったけど、ほら、ことわざにあるだろう。終りよければすべてよし、って」  終の意見を、苦笑まじりに聞き流して、始は浴室にはいった。浴槽に身をひたし、タオルを頭にのせてぼんやりしていると、続が話しかけてきた。おしゃれな彼としては、今夜の火まみれ水びたしが、さぞ不本意であったにちがいない。身体じゅう石齢の泡だらけにして洗いたてている。 「ほんとうにこれで終わったんでしょうか、兄さん」 「さあな」  六月に船津老人が醜悪な死をとげたとき、始は、これで終わったのだ、と思いたかった。地下帝国の巨魁《きよかい》が滅びて、残された小物たちは右往左往することだろう、と。ところが、小物たちは彼らなりに薄ぎたない野心を持ち。それを成功にみちびくための汚れた権力と醜い暴力を持ちあわせていたのだ。  非合法なテロリストなどこわくない。ほんとうに恐ろしいのは、権力を持ち。法をつくり、法によって人を罪におとすことができる連中だ。アドルフ・ヒットラーも、ヨシフ・スターリンも、一国の支配耆であって、町の無法者ではなかった。偉大な指導者であるふたりが、あわせて五〇〇〇万人以上の人を殺したのだ。チャップリンが「殺人狂時代」で告発した時代から、事態はいっこうに変わっていない。五人の人間を殺害した犯人は死刑になるが、熱処理ずみ血液製剤の輸入を拒否して数百人の血友病患者を|AIDS《エイズ》に感染させた厚生省の官僚は、のうのうと天下りして、何の責任もとらない。  奇怪なことに、この世界は、権力と責任が大きい者ほど、罪を問われないことになっているようであった。どこかの国のことわざにあるではないか——「兵士は死すとも、王座はゆるぎなし」と。  地球は美しい。だが、それを統治する人間たちのシステムは、どこかが狂っているのではないか。ごく平凡でもっともな結論に達した始は、頭の上にのせたタオルをとって顔をふいた。脱衣室に出ていった続が、化粧ガラス戸ごしに笑いかけた。 「あまり長湯するとのぼせますよ、兄さん」 「ああ、わかってる。ふやける前にあがるよ」  竜に変身したとき、余はその間の記憶を失っていた。そしていま、続の記憶にも空白の部分がある。これは覚醒と呼べるものだろうか。意識があり、記憶がたもたれてこそ、真の覚醒と呼べるのではないだろうか。  とすれば、まだ何も終わってはいないどころか、何も始まってさえいないかもしれない。  始と続がバスローブをまとって食堂へあらわれたところへ、終が声をかけてきた。 「兄貴、茉理ちゃんから電話があったよ。叔父さんとふたりで、無事に帰ったって。でもって、午前中は眠って、お昼になったら差しいれにきてくれるってさ」 「ありがたいな。じゃあ、それまでおれたちも眠るとするか。機動隊や自衛隊が押しかけてきたら、それはそのときのことだ」  長兄の意見に全員が賛同した。夏の朝が最初の光のかけらを投げつけたとき、竜堂家は眠りの神の支配下にあった。  こうして、わずか一二日ほどの間に、メガロポリス・卜ーキョーに巨大な損害を与えた四人組は、つぎにめざめるまで、ささやかな休息をえたのである。  メガロポりス・卜ーキョーが世界に誇っていた新宿新都心は、都庁を中心として半ば廃墟と化してしまった。被害額は、都庁ビルだけで一五〇〇億円、他のビルや自動車、人的被害など、すべてあわせて一兆円近くに達するのではないかと思われた。さいわいにして、共和学院は焼失をまぬがれ、院長の鳥羽靖一郎は胸をなでおろしたのであった。  一夜あけて、政府はパニック状態にあった。朝の光のなかでは、火竜の存在など夢としか思われず、どう合理的に事件を説明し、政府の責任を回避するか、首相はこれから必死の知恵をしばることになるであろう。アメリカ軍からは、出動を極秘にするよう、要請という名の強制を押しつけられ、暴威をふるった火竜はいつのまにやら消えさり、事後処理の山だけが、首相に残されたわけであった。  在日米軍司令部が置かれた横田基地では、二機の飛行機が離陸の準備をすすめていた。一機は、東京都庁ビルの内外から回収された遺体を、アメリカ本土へ運ぶ輸送機である。もう一機は、外見こそ輸送機だが、内部は豪華ホテルのインペリアルルームに匹敢する内装がほどこされ、それにふさわしい調度がそなわっていた。  ソファーで英字新聞を読みおえたウォルター・S・タウンゼントがつぶやいた。 「竜堂家の兄弟を掌中《しょうちゅう》におさめるためには、常人を用いてはとうてい不可能らしい。日本人どものぶざまさよ」  タウンゼントは薄く笑った。飛行船の正体を隠滅《いんめつ》するため、米軍を出動させ。あらたな死傷者を出したことについて、気にかけているようすもない。他国民にせよ、アメリカ国民にせよ、四人姉妹《フォー・シスターズ》にとって、人命とは、もっとも安あがりのありふれた資源でしかなかった。 「今度はひとつ国防総省《ペンタゴン》に命令して、超能力機動部隊の三、四人を出動させるかね、レディ?」  タウンゼントの声が流れる先に、背もたれの高い安楽椅子とオットマンが置かれ、ひとりの人物が両脚を投げだしてすわっていた。  服装から女と知れるその人物の顔は、映画の特殊メイクアップに使用される有機性樹脂のマスクにおおわれていた。タウンゼントの声が彼女の耳にとどいたとき、あえぎともうめきともつかない声帯の震動が、マスクごしに洩《も》れた。それは、まちがえようもない呪詛《じゅそ》の声であった。                                    〈了〉 [#改ページ]  この物語はあくまでフィクションであり、現実の事 件・団体・個人などとは無関係であることを、とくに お断わりしておきます。 [#改ページ] あとがきがわりの座談会 続 あとがきを書くように、と、編集者が命令したんですけど、作者が七割がた死んでて、そんなめんどうなことはいやだというんです。で、ぼくたちに座談会をやれってことなんですが。 終 べつにいいけどさ、それは。ギャラはいくら? 続 ええと、ボランティアってことですね。 終 無料出演? そりゃないよな。おれたち、四人のうち三人までが未成年の身で作者を養ってやってるんだぜ。 続 ここで恩を売っておけば、三巻では終君を変身させてくれるかもしれませんよ。 終 べつに変身したかないけどね。ほんと、はた迷惑もいいところだもんな。作者もとんでもない設定したもんだ。 始 まあ、そういうな。作者は一八年前から、こういう設定と、おれたちの名前を考えてたんだから。考えてみると、ぜんぜん進歩がないわけだが……。 余 知ってる。数学のノートに方程式書かずに、始、続、終、余って書いて、ストーリーを記してたんだって。でもって、教師に見つかって。えらくにらまれたんだってね。 終 にらまれるだろうな、そりゃ。 続 でも、そのおかげで今日のぼくたちが存在するんですよ。 始 それはそうだが、作者の性格が問題だな。売れれば官軍だと思ってるんじゃないか。大学院にいる間に、プロの作家になってしまって、後輩から「どうして論文を書かないのか」って問われたときに、むろん冗談だけど、「論文書いても女の子からファンレターは来ない」って答えた男だからな。 終 そりゃそうだ、まちがいない。正直な点だけは認めてやろう。 続 で、ぼくたちの生みの親は、いつ第三巻を書くつもりなんでしょうね。 余 今年じゅうには第三巻が出るって言ってたよ。たぶん秋には。 終 信用していいのかよ。いつだったか、「おれは予定より早く原稿をあげたためしがない」っていばってたぜ。 始「遅らせようと思って遅らせたことは一度もない」とも言ってたな。 続 こまった人ですね。いつまで売れるつもりでいるのやら。 終 今だって、たいして売れてるわけじゃないだろ」 続 それを言ってしまうと、身も蓋《ふた》もありませんよ。あの人にしてみると、だいたい自分の本が売れるなんて思ってなかったんですから。五万部売れたら他人事、という人ですからね。 始 もともと、おれたちの話だって一冊きりで終わろうとしてたんだ。だから、編集者が「創竜伝1」とタイトルをつけようとしたら、数字をけずっちまった。 終 これから先の話、考えてるんだろうなあ。 余 これまでの話だって、あんまり考えてなかったんじゃない? 終 わりとぎついね、お前。 擁 ま、そうシリアスな話にはならないと思いますよ。ぼくらのネーミングからしても ね。 余 そういえば、ぼくたちの名前について、本気で怒ってる人がいるんだってね。 始 作者のところに手紙をよこしてな、こんな不まじめな名前の主人公を出すとはけしからん、と叱りつけたそうだ。 終 けしからんのは事実だけどさ、そう思ったら読まなきゃいいだろ。 続 そうですね。その人にとっては時間とお金のむだですから、読まなければいいんです。ぼくたちも、いまさら改名するわけにはいきませんからね。 始 こらこら、読者にけんかを売るんじゃない。このさい申しあげておかなきゃならないのは、たくさんの読者の方たちに応援していただいたおかげで、作者の一八年来のアイデアが今後も陽の目を見ることができる、ということなんだから。 余 皆さん、ほんとにありがとうございます。 続 長兄と末弟がフォローしてくれたところで、話を変えましょう。この先、どんな敵がぼくたちの前にあらわれるのか。 終 これまで大した敵が出てこなかったもんなあ。 始 大した敵だよ(笑)。おれたちでなかったら、とっくに殺されてるぞ。 続 巨大な敵を卑小に描くあたりが、作者の苦労のしどころなんだそうですけどね。 余 アメリカ軍まで出てきたね。アメリカに行くのかしら?。 終 中国内陸ツアーだって聞いたけどな。いいかげんだなあ。 始 地底王国《アガルタ》伝説でも持ち出すつもりかな。 続 ええと、ここに、作者の高校時代のノートの一部があります。「親のいない四人兄弟が、超人的な熊力を使って、さまざまな事件に立ちむかっていく……」 始 さまざまな事件って? 儘 いくつか書いてあるんですけど、鉛筆書きの字がうすれててね。あ、悪役について書いてあります。「その一、兵器会社の社長で、軍国主義者。だが、自分の子供を自衛隊に入れたりはしない卑怯者」。 終 昔からきらいだったんだ(笑)。 始 第二巻でかたついてない悪役が何人かいるからな。そいつらをどうにかしないと。 続 そのあといよいよ「木竜」の出番ですか(笑)。 余 どんな竜なのかなあ。 終 竜が咆《ほ》えると、東京のあちこちに、にょきにょき木がはえてくるんだぜ、きっと。 始 お前、来月のこづかい、半分な。 終 あ、家長横暴! 冷酷無情! 続 なごやかな雰囲気のうちに、このあたりで閉会といたします。 [#改ページ]  底本     創竜伝2 摩天楼の四兄弟 (天野版、CLUMP版)  出版社    株式会社 講談社  発行年月日  1988年4月5日 初版発行 (天野版)  入力者    ネギIRC